惑星科学者であるカール・セーガン博士が自著「人はなぜエセ科学に騙されるのか」の中で説明しているチェックリストです。 このキットを使うとトンデモ話をある程度検出することができ、トンデモ話に騙されず、かえってそれを楽しむことができます。
「事実」が出されたら、独立な裏付けをできるだけ沢山取るようにしよう。
証拠が出されたら、様々な観点を持つ人達にしっかりした根拠のある議論をしてもらおう。
権威の言うことだからといって当てにしないこと。 権威はこれまでも間違いを犯してきたし、今後も犯すかもしれない。 科学に権威はいない、せいぜい専門家がいるだけだ。
仮説はひとつだけでなくいくつも立てること。 まだ説明のつかないことがあるなら、それが説明できそうな仮説をありったけ考え出そう。 次にこうやって得られた仮説を片っ端から反証していく方法を考えよう。 そうしてふるいにかけられてなお残った仮説は、単なる思い付きの仮説に比べて正しい答えを与えてくれる見込みがずっと高いはずだ。
自分が出した仮説だからといって、あまり執着しないこと。 仮説を出すことは知識を手に入れるための一里塚にすぎない。 なぜそのアイデアが好きなのかを自問し、他のアイデアと公平に比較して、そのアイデアを捨てるべき理由がないか探してみよう。
尺度があって数値を出すことができれば、いくつもの仮説の中からひとつを選び出すことができる。 曖昧で定性的なものには色々な説明が付けられがちだ。
論証が鎖のようにつながっていたら、鎖の輪のひとつひとつがきちんと機能しているかどうかをチェックすること。
データを同じくらいうまく説明する仮説が2つあるなら、より単純な仮説を選べ。
仮説が出されたら、少なくとも原理的には反証可能かどうかを問うこと。 仮説は原理的に検証できるものでなければならない。 例えば「全ての人には同性愛の願望があり、それは発達段階の中で無意識の底に抑圧されている」という仮説は、同性愛者という自覚がある人はもちろん、同性愛者という自覚がない人でも、「その願望は無意識に抑圧されていて自覚できない」ということで必ず当てはまってしまい反証できない。 このように、どんな場合でも当てはまってしまう詭弁のような仮説には大した価値はない。
科学はデータというレンガを積み上げ、それを論理というセメントで固定して、科学理論という建物を建てるようなものです。 そして科学の本質は、レンガを丹念にコツコツと積み上げる地道な作業にあります。 いくら見かけはもっともらしくても、レンガをコツコツと積み上げていない上っ面だけのハリボテは、難しい技術もいらず、大きな努力もせずに簡単に作れますが、すぐにポシャってしまい実用に耐えません。
似非科学のようなトンデモ話はイメージと思い込み(^^;)だけで議論できるハリボテであり、科学よりも容易に世にはびこることができます。 しかし所詮はハリボテですから、流行するのも容易なら、廃るのも容易です。 このトンデモ話検出キットを使って、レンガを丹念に積み上げ、セメントでしっかりと固定してあるかどうかをチェックすれば、科学と似非科学を見分けることができると思います。v(^_-)
トンデモ話検出キットを逆に利用すると、「トンデモ話でっち上げキット」ができます。 これは電波系の人や似非科学者や詐欺師や政治家がよく利用するキットで、僕もたまに利用するので(^^;)、一部修正して紹介しましょう。
以上の「トンデモ話でっち上げキット」をうまく使うと、トンデモ話をもっともらしくでっち上げることができます。 また例として挙げたものはかなり極端なものですので、すぐに欠陥がわかると思いますが、これに類する議論はそれと気づかずに日常生活で行っていると思います。
そのことを考えると、科学的な議論をするためには、冷静かつ客観的なデータに基づいて、細心の注意を払いながら粘り強く丹念な思考をする必要があることがわかると思います。 つまりデータというレンガを丹念に積み上げ、論理というセメントでしっかりと固定する必要があるのです。 それをするにはある程度の努力と訓練が必要であり、一朝一夕にはいきません。
それに対して似非科学はイメージと思い込み(^^;)だけで議論できます。 そのことが、科学よりも似非科学が世にはびこる大きな要因のような気がします。
科学哲学を専門とする伊勢田哲治博士が「生活知と科学知(2009)」という放送大学講座の中で、怪しい健康情報番組の例と、その内容を科学的に吟味するための批判的思考法(クリティカル・シンキング)を説明しています。 これは、この手の怪しい健康情報が氾濫する現在、日常生活でも大いに参考になると思われるので、その内容を少しアレンジして紹介しましょう。 (^_-)
最初に「耳より健康情報! シナモンで糖尿病予防」というタイトルが派手に映し出される。
次に「食事にシナモンをかけて食べた糖尿病患者の血糖値が18%下がった」ということを報告した論文が、アメリカの糖尿病専門の学術誌に掲載されたという説明があり、学術誌の名称とその論文の一部が紹介される。
今度は、本当に血糖値が下がるのか確認するために、その番組で行った実験の様子がVTRで流される。
その実験では血糖値が気になる数人の主婦に参加してもらい、1週間の間、毎日、少量のシナモンをご飯にふりかけて食べてもらい、血糖値を測定した。 そしてその結果、本当に血糖値が低下したことを表す折れ線グラフが紹介される。
さらに「○○医科大学教授」という肩書の白衣の人物が、インタビューを受けている様子がVTRで流される。
その人物は「シナモンには○○○○(アルファベットとギリシャ文字で表された、聞いたことのない難しい名前)という成分が含まれていて、それがインスリンの働きを高める効果を持っている」と説明する。
そのVTRを観て、司会者が「そういえば、以前、シナモンティーをよく飲んでいた頃は、確かに体調が良かった気がする」という自分自身の体験談を披露する。
最後に、司会者が「今日からでもシナモン健康法を始めてみませんか!」としめくくって番組が終わる。
このもっともらしい番組を観た視聴者の多くは、「これは科学的根拠のある情報だ!」と信じ込んでしまうでしょう。 そして翌日には近所のスーパーマーケットでシナモンを大量に買い込み、日本中のスーパーマーケットでシナモンが売り切れるという事態が発生するかもしれません。
たいていの健康情報番組は、この例よりもはるかに少ない情報しか提供しません。 しかしそれにもかかわらず、番組で紹介された食品が日本中のスーパーマーケットで売り切れるという事態がしばしば発生します。 (^^;)
このような「耳より健康情報」が本当かどうかを判断するためには、次のような点を吟味しながら批判的思考をする必要があります。
批判的思考とは情報を鵜呑みにせず、よく吟味するということです。 そしてこういった健康情報をよく吟味し、根拠に基づいた結論を導き出すためには、メディアリテラシーつまり各種のメディアからの情報を読み解き、それを活用する能力と、科学リテラシーつまり科学を理解し、それを活用する能力が必要になります。
上記のチェックリストに従って「シナモンで糖尿病予防」という健康情報を吟味したところ、次のようなことが判明したとします。
図書館またはインターネットで該当する論文を入手し、その全文を読んだところ、糖尿病患者を無作為に2群に分け、一方の群には1日あたり6gのシナモン(市販されている瓶詰めシナモンの3分の1の量!)をかけた食事を摂取させ、もう一方の群には食事だけを摂取させていた。 そして1週間後にシナモン摂取群は血糖値が18%低下し、シナモン非摂取群(対照群)は血糖値が10%低下していた。
そして対照群における血糖値の10%の低下は、食事制限の効果だろうと考察されていた。 またシナモン摂取群は下痢の発生頻度が対照群よりも多く、そのせいで血糖値が対照群よりも8%多く低下した可能性を否定し切れないので、今後の検討課題だと述べられていた。
番組スタッフの知り合いの女性に手当たり次第に参加してもらい、1週間後に血糖値が下がった人の結果だけを採用し、それが数名になったところで実験を終了し、平均値を計算してそれを折れ線グラフで表した。
実際には血糖値が下がった人の数と上がった人の数はほぼ同数で、全員の血糖値の平均値はほとんど変化していなかった。
○○医科大学教授はシーン2で紹介された論文を読んでいて、シナモン摂取群の血糖値が低下した原因は、シナモンを大量摂取したことによって発生した下痢のせいだろうという見解だった。
またシナモンに含まれる○○○○は、試験管内の実験(in vitro)では確かにインスリンの働きを高める効果が確認されているが、ヒトが摂取すると消化酵素の作用で分解されてしまい、効果がなくなるという結果を報告した論文がある。 それに1日あたり6gという用量は嗜好品として使うシナモンの通常量の10倍以上だから、通常量で同じ効果があるとは考えられない。 さらに糖尿病患者と健常人ではインスリンの働きが異なるので、たとえ○○○○が糖尿病患者のインスリンの働きを高めたとしても、健常人にも同じ効果があるとは限らない。
そのためシナモンの糖尿病予防効果には否定的で、むしろシナモンの大量摂取は下痢をする危険性があると説明していた。
しかし番組では、このインタビューの中の「シナモンには○○○○という成分が含まれていて、それがインスリンの働きを高める効果を持っている」と説明した部分だけを放映した。
これは番組のディレクターから指示されて司会者が語った「演出(やらせ)」で、実際には司会者はそのような体験はしていなかった。
これらの情報から「シナモンで糖尿病予防」という健康情報は間違いであり、むしろ「シナモンの大量摂取は下痢しやすいので危険である」という結論を導き出すことができます。
もちろん、この番組も吟味内容も全て架空のものです。 でも僕はこの番組で行われた実験に近い実験データのまとめをマスコミから依頼され、真っ正直に解析してしまい、その番組の趣旨とは正反対の解析結果になったため、まるっきり無視された経験があります。 (当然、解析料は支払ってもらませんでした。σ(;_;))
これは「やらせ」または捏造に近い番組の例ですが、やらせや捏造をしない番組でも、制作者の趣旨に沿った情報の取捨選択が必ず行われ、必然的に情報の偏りが生じます。 これを「メディアバイアス」といいます。 そしてそのメディアバイアスのせいで、視聴者がある一定の方向に誘導されるということが起きやすくなります。
このようにメディアが発する情報に接する時は、どんな番組やメディア報道にも——そしてこの「ドンデモ健康情報番組の作り方」自体にも(^^;)——メディアバイアスがかかっていて、時には「やらせ」や捏造も大いに有り得るということを常に意識しておく必要があります。
「トンデモ話でっち上げキット」の中で説明した雨乞い三”タ”論法は、古今東西、普遍的に行われている推論方式です。 そこで、これについてもう少し突っ込んで検討してみましょう。
雨乞い三”タ”論法は「雨乞いをした→雨が降った→雨乞いが効いた」と、「た」を3つ重ねて推論する似非三段論法です。 しかし当館の「統計学入門 1.9 科学的研究のデザイン」で説明している科学的研究デザインに従うと、雨乞いの効果を厳密に調べるためには、雨乞いの有無を原因とし、雨が降ったかどうかを結果とした無作為化比較対照試験(RCT:Randomized Controlled Trial)を行う必要があります。
この無作為化比較対照試験では、まず十分な期間——例えば1年間を試験期間にし、毎朝、サイコロを転がして雨乞いをするかどうかを決め、その結果、その日に雨が降ったかどうかを観測します。 実際には、毎朝、サイコロを転がすのは面倒なので、カレンダーなどを使って1年365日をランダム(無作為)にほぼ等しい数の2種類の日に分け、一方の日は雨乞いをし、もう一方の日は雨乞いをしないで雨が降るかどうかを観測します。 これを単純無作為化法といいます。
ところが全期間をランダムに雨乞いをする日としない日に分けると、たまたま一方は雨の多い梅雨の時期の日が多くなり、もう一方は雨が降らない真夏の日が多くなるという偏りが生じる可能性があります。 これでは雨乞いをした日としない日を公平に比較することはできません。 このように雨乞いの結果に影響を及ぼすと考えられる様々な因子のうち、目的の因子(この場合は雨乞い)以外の因子(この場合は季節)のことを交絡因子(confounding factor)といいます。
そこで1年を短い期間——例えば1ヶ月に分割し、1ヶ月ごとに雨乞いをする日としない日をランダムに決めます。 これによって、雨乞いをする日としない日が特定の時期に偏るのを防ぐことができます。 これを層別無作為化法といいます。
このような試験計画に従って、実際に雨乞い試験を行なった結果を次のような2×2分割表にまとめます。
結果:降雨 | 計 | |||
---|---|---|---|---|
無 | 有 | |||
原因:雨乞い | 無 | 110(60%) | 73(40%) | 183 |
有 | 111(61%) | 71(39%) | 182 | |
計 | 221(61%) | 144(39%) | 365 |
この表の「183:雨乞い無」と「182:雨乞い有」の日数は試験を行う人が決定する定数であり、それ以外の110(雨乞い無−降雨無)、73(雨乞い無−降雨有)、111(雨乞い有−降雨無)、71(雨乞い有−降雨有)の日数は、雨乞いの効果によって変動する観測結果です。 無作為化比較対照試験は「前向き介入試験」であり、原則として結果をこのような表にまとめることができます。
この結果に基づいて、雨乞い無群の降雨日率=73/183=0.40と雨乞い有群の降雨日率=71/182=0.39を比較することによって、雨乞いの効果を検討することができます。 すなわち「雨乞い有群の降雨日率>雨乞い無群の降雨日率」なら「雨乞いが効いた」と結論することができます。 しかし上表のように「雨乞い有群の降雨日率=40%≒雨乞い無群の降雨日率=39%」なら「雨乞いは効かなかった」と結論することになります。 (話が複雑になるので、ここではデータの統計解析の話までは深入りしません。 このデータの統計解析に興味のある方は、当館の「統計学入門」を御覧ください。(^_-))
ところが薬剤の効果を厳密に検討したい時ならいざしらず、雨乞いの効果をここまで厳密に検討する暇人はいないでしょう。 普通は雨乞いをしない日は無視して、雨乞いをした日に雨が降るかどうかだけを観察します。 そして大方の場合、雨が降るまで雨乞いを続けます。
例えば「雨が降るまで雨乞いを続ける」ということを10回行うと、その結果は次のような表として観察され、雨乞い有群の降雨日率は必然的に100%になります。 この結果を見れば、「雨乞いが効いた!」と思い込んでしまうのも無理はありません。 また雨が降るまで雨乞いをしなくても、「雨乞いが効いて欲しい」という願望から、「アタリを数えてハズレを忘れる」という心理——これを確証バイアスといいます——が働くため、雨が降った日のことは強く印象に残り、雨が降らなかった日のことは忘れてしまいがちです。
結果:降雨 | 計 | ||
---|---|---|---|
無 | 有 | ||
原因:雨乞い有 | 0(0%) | 10(100%) | 10 |
これが「雨乞い三”タ”論法」を信じ込んでしまうカラクリであり、これによって本来は因果関係のない出来事の間に強い因果関係があるように思い込んでしまい、世界中で雨乞い信仰が生まれることになります。 このような幻の因果関係のことを錯誤相関または幻相関(illusory correlation)といいます。
「雨乞い三”タ”論法」のような推論法は自分の経験に基づいて色々な因果関係を推論する「経験的思考法」であり、実は人間が本能的に備えている思考法に他なりません。 この経験的思考法は自然界で起こる森羅万象に素早く対処するための有効な思考法であり、長い進化の結果、人間に備わったものだと考えられています。
例えば遥か大昔、ライオンに襲われたヒトが近くにあった木に登って逃げたところ、ライオンはそれ以上追いかけてこずに助かったとします。 するとこの経験からヒトは「木に登って逃げた→助かった→ライオンは木に登れない」という推論をし、「ライオンに襲われたら木に登って逃げれば良い」という経験則を導き出します。
この「ライオンに襲われたら木に登って逃げれば良い」という経験則が正しいかどうかを厳密に検討するためには、雨乞いの効果を厳密に調べるのと同じような試験を行う必要があります。 つまり多数のヒトを無作為に2群に分け、ライオンに襲われたら一方の群は木に登って逃げ、もう一方の群は木に登らないで逃げるという無作為化比較対照試験を行い、成功率を比較するわけです。
しかしそんな悠長な試験を行っていたら、ヒトはとっくの昔に滅亡していたでしょう。 しかも自然界では、こういった経験則に従っていればたいていはうまくいきます。 このように自然界で起こる森羅万象に素早く対処するためには、わずかなデータから因果関係を手っ取り早く推論する経験的思考法が有効であり、ヒトは進化の段階でこの思考法を身に付けたと考えられています。
この思考法は手っ取り早くて実用的ではあるものの、いつも正しい結論を導き出すとは限りません。 その代表的な例が「雨乞い三”タ”論法」であり、そのような場合は経験的思考法が迷信的思考法になってしまいます。
また経験的思考法は経験の質が大切なので、経験豊富な年長者のものがより信頼されます。 しかし現代社会では、経験の豊富さとは無関係にマスコミ等で広く知られた有名人——例えばタレントや司会者や作家等々——のものが信頼される傾向があります。 それを利用したものが、例えば「トンデモ健康情報番組の作り方」で説明した<シーン5>の司会者の体験談の披露であり、タレントを起用した商品のコマーシャルフィルムです。
遥か大昔のヒトの群れでは経験豊富な年長者はたいていリーダー格の存在であり、群れの中では有名だったでしょう。 しかし現代社会では有名人が必ず経験豊富なリーダー格とは限らないので、有名人の経験的思考法を信頼するとどうしても迷信的思考法に陥りやすくなります。
また「雨乞い三”タ”論法」を逆に使い、「雨が降った→雨乞いをすると雨が降る→誰かが雨乞いをした!」と原因を即断する逆雨乞い三”タ”論法もよくあります。 例えば、ある薬剤を服用している人が「この薬剤は稀に副作用として胃腸障害が発生する」という因果関係を知っていると、たとえ食べ過ぎでお腹が痛くなった時でも、「腹が痛くなった→この薬剤は副作用として胃腸障害が発生する→この腹痛は薬剤の副作用だ!」と、「逆雨乞い三”タ”論法」によって原因を即断してしまいがちです。
さらに厄介なことに、人間には「薬を飲んだ」という意識だけで病気が治ってしまうプラセボ効果という心理効果があります。 このプラセボ効果には良い心理効果だけでなく悪い心理効果もあり、「病は気から」という昔からの格言どおり、「薬を飲んだ」という意識だけで副作用が発生したりします。
このような厳密さに欠ける「雨乞い三”タ”論法」や「逆雨乞い三”タ”論法」という経験的思考法の代わりに、非常に時間と手間のかかる厳密な試験によってコツコツとデータを集め、それに基づいて因果関係を厳密に検討しようとする思考法が科学的思考法です。 科学的思考法は厳密さを徹底的に追求した思考法であり、「人間は騙されやすく、間違いを犯しやすい存在である」ということを基本にし、経験的思考法の欠点を十分に認識した上で、その欠点をカバーするために色々な対応策を工夫した人間不信の思考法(^^;)です。
例えば薬剤の効果を検討する場合、基本的には雨乞い試験と同様の無作為化比較対照試験を行います。 しかしプラセボ効果の存在を考慮して、効果を検討したい薬剤を投与する薬剤投与群だけでなく、その薬剤を服用しない対照群にも「プラセボ」という特殊な薬剤を投与します。 プラセボは見かけは薬剤投与群の薬剤と全く同じですが、薬効成分が含まれておらず、理論的には効果のない偽薬です。
そして対照群と薬剤投与群のプラセボ効果を公平にするために、ある被験者が対照群に属しているのか、それとも薬剤投与群に属しているのか、本人にも、薬剤の効果を判定する評価者(たいていは主治医)にもわからないようにします。 このような試験法を二重盲検法(Double Blind Method)といい、この試験法を用いた臨床試験(DBT)で新薬の効果を厳密に検証することが現在の新薬許可基準の必須条件になっています。
このように科学的思考法とは、人間に本来備わった経験的思考法に反する不自然に厳密な懐疑的または批判的思考法(クリティカル・シンキング)です。 そのため科学的思考法を行うには「今、自分はどのような思考法をしているのか?」ということを常に自問自答しながら、無意識のうちに行う経験的思考法を排除し、思考法を意識的にコントロールする訓練が必要であり、一朝一夕にはいきません。
実際、科学的思考法をするのは本当に面倒で、時間と手間がやたらとかかり、頭をフル活動しなければなりません。 そのため多くの人が「雨乞い三”タ”論法」のような経験的思考法で一足飛びに結論に飛び付いたり、思考停止してマスコミ報道を鵜呑みにしたりする気持ちがよくわかります。
でも薬剤の効果のような重要な事柄については経験的思考法に頼らず、思考停止することもなく、科学的思考法を用いて冷静かつ厳密に検討することが大切です。
社会心理学者レオン・フェスティンガー(1919-1989)が提唱した、人の信念や行動の変化を広範囲に説明する理論です。 その基本的枠組みは「人の心の中に相容れない複数の認知要素(知識や信念、態度、行動など)が生じると、そこには不快な緊張(不協和)が引き起こされ、人はそれを低減するように動機づけられる」というものです。
この理論によれば、矛盾する認知要素によって生じる不協和を低減するために、認知要素の変更、新しい共和的な要素の負荷、要素の重要性の操作などの方略が無意識のうちに取られます。 つまり認知的不協和理論とは言い訳と自己欺瞞による自己防御であり、有名なアイソーポス(イソップ)物語「狐と酸っぱいブドウ」に因んだ酸っぱいブドウの法則(手に入れられなかったブドウを無理矢理酸っぱいと思い込む)や甘いレモンの法則(苦労して手に入れたレモンを無理矢理甘いと思い込む)を体系化したものです。 具体的な例として次のようなものがあります。
愛煙家にとって「タバコが肺がんの原因である」という知識は不協和を引き起こす。
→これを低減するために最も好ましいのは「タバコをやめる」という認知要素の変更である。
→しかし愛煙家にとってそれは簡単ではない。
→そのため別の認知要素である「タバコが肺がんの原因である」を何とか始末しなければならない。
→そこで「タバコ有害論には欠陥がある」という情報を探したり、
「タバコ有害論は間違いだ」と根拠無く断言して、そのような情報を目にしないようにしたり、
「排気ガスの方がはるかに危険だ」と考えて要素の重要性を操作したり、
「愛煙家でも長生きしている人がいる」という新しい要素を付け加えたり、
「自分は適度な愛煙家であり、吸い過ぎてはいない」という認知的歪曲を行ったりする。
→それによって無意識のうちに不協和状態を低減させる。
自分では悪い人とは思っていない相手に全く意図なく害を加えてしまったり、害が加えられるのを見過ごしてしまった場合、自分がはからずも加害者側になったという罪の意識は不協和を引き起こす。
→これを低減するために最も好ましいのは、「害を加えた相手に謝る」または「害が加えられるのをやめさせる」という認知要素の変更である。
→しかしそれは自尊心が許さず、害が加えられるのを止める勇気もなく、自分が加害者側になったという行為も取り消せない。
→そこで「相手は害を加えられても仕方のない悪い人だった」または「害を加えられる方が悪い(騙される方が悪い)」という認知的歪曲を行う。
→それによって無意識のうちに不協和状態を低減させる。
→このメカニズムによって、イジメを傍観していた無関係な人を加害者側に巻き込み、イジメがさらにエスカレートする。
開始時は必要と思われた公共事業だったが、時代が変わってその公共事業の必要性が失われた場合、すでに多くの費用を投資したという事実は不協和を引き起こす。
→これを低減するために最も好ましいのは、「時代の変化に合わせて無駄な公共事業を中止する」という認知要素の変更である。
→しかしそれは事業を推進した政治家や官僚の先見性の無さを露呈することになるので、彼等はそれを認めようとはしない。
→そこで「この公共事業はまだ必要性がある」という評価の歪曲を行ったり、
「将来のためにこの公共事業は必要である」という非合理な存続理由をこじつけたりする。
→それによって無意識のうちに不協和状態を低減させる。
→このため、一度動き出した無駄な公共事業を中止するのは困難である。
以上のような例は、誰でも多かれ少なかれ心当たりがあると思います。 そして似非科学者と論争したり、その信奉者を説得しようとしてやたらと苦労した経験のある人は、フェスティンガーが認知的不協和理論をカルト教団に適用して実証しようとした名著「予言がはずれるとき」の冒頭の、次の文章に大いに共感すると思います。
この本に登場するカルト教団の人達の言動は、似非科学の信奉者達の言動や、「ネット右翼」と呼ばれる人達の言動にそっくりです。 これらの集団は次のような特徴を持っていて、この特徴は認知的不協和理論でうまく説明することができます。
「新しい知識や事実を受け入れず、自己欺瞞によって間違いを許容し、自らの正しさを強調するために間違いをさらに再生産する」