玄関雑学の部屋雑学コーナー閑話閑人
○科学と魔術

「科学」というと、知識、技術、文明などというプラスイメージを持つキーワードと、公害、環境破壊、人間性の喪失などというマイナスイメージを持つキーワードの両方を思い浮かべる人が多いと思います。 実は歴史的には、占星術(星占い)や錬金術(金を人工的に合成する方法)に象徴されるように、科学は占いや魔術と同類で、マガマガしく不吉なものと思われていた時代の方が長いのです。

「ケプラーの法則」で有名なヨハネス・ケプラーも、天文学者であると同時に、職業的な占星術師でもありました。 彼は、現代風に言えばSF小説に相当する「夢」(「ケプラーの夢」講談社)という小説を書いています。 その中で、ケプラー自身がモデルと思われる主人公が月世界に旅行するのですが、その推進力は何と精霊の力なのです。 しかし晩年になり、さすがに近代科学的な自覚が芽生えたらしく、

「占星術は天文学の愚かな娘であるが、その娘の娼婦稼業で天文学は養われている」

という、やや自虐的な言葉を残しています。 この頃の天文学というのは、一部の物好きだけがやる、役に立たない趣味にすぎず、たいていの天文学者は、当時としては実用的な占星術によって生計を立てていたのです。

それが産業革命以後、近代科学を用いて色々と人間に役立つものができるようになると、科学とは役立つものであり、良いものであるという新たな認識が広がり始めました。 そして現代になり、あまりにも科学技術に頼りすぎた生活をした結果、そのしっぺ返しとして、環境破壊や物質文明の弊害が問題となり、昔とは別の意味で科学とは悪いものだという考えが出てきたのです。

科学に対する認識が変わったと言うものの、残念ながら科学に対する根本的な理解が深まったとは言いがたいような気がします。 比較的多くの人間にとって、現代の科学とは、黒い服をまとった魔法使いが白衣を着た科学者に変わり、妖精や悪霊やカミナリ様が電波や放射線や電子という名に変わっただけの、魔術の一種にすぎないようにも思われます。 SF作家のアーサー・C・クラークは、

「十分に発達した科学は魔法と見分けがつかない」

と言っていますが、現代科学は、いわば白魔術(良い魔術)と黒魔術(悪い魔術)の両方の特徴を合わせ持った、新しい魔術なのかもしれません。

○科学と科学者

現代科学を新しい魔術とすれば、科学者はその魔法使い役と言えますが、彼等は昔も今も、科学を人類に役立てようとか、悪用しようとか思っているわけでは必ずしもありません。 純粋に科学を研究している科学者は、本質的にはただ単に自然が好きで、自然のしくみが知りたくて仕方ないので、科学を研究していることが多いのです。

日本を代表する物理学者の湯川博士は、

「オバケを見て恐いと思わない人は科学者にはなれない」

という少し逆説めいたことを言っていますし、同じく日本を代表する物理学者の朝永博士も、

「科学者の本質は好奇心である」

と言っています。

僕が知り合った科学者の中にも、まるで大きな子供のような人達がたくさんいます。 世事に疎く、口下手で、人付き合いが苦手で、身なりに無頓着で、好奇心に溢れていて、夢中になると我を忘れてしまう、愛すべき人達です。(科学者に限らず、そういった人達が僕は大好きです)

しかし近代になり、科学はそれと知らずにパンドラの箱を開け、人間の力では制御しきれないような、巨大なエネルギーを解放してしまいました。 その結果、科学者達は、象牙の塔にひきこもり、自分達だけの世界で快楽に耽ってばかりいるわけにはいかなくなったのです。 高度に発達した近代科学は、本質的に諸刃の剣という性質を持っており、権力者や為政者によって悪用されやすいという事実は、決して忘れてはならないことです。 科学が持っている危険性を一番よく理解しているはずの科学者には、科学が悪用されないように常に監視しなければならないという、重い義務が生じたのです。

○近代科学の成立

近代科学が確立されるまでには幾多の先人達の苦闘があり、科学の歴史はそのまま迷信と権力との絶間ない戦いの歴史でもあります。 何時の時代でも迷信と権力は、なかんずくその申し子である宗教と戦争は苦々しいカクテルを作りだすものです。

古代ギリシャ最大の知性であったアルキメデスは、その何者にも縛られない自由主義的な思想の故に、多くの科学的業績を残すと同時に、非業の最後をとげることにもなりました。 彼の住むシラクサの町にマルケルス率いる狂暴なローマ軍が侵略した時、彼はいつものように地面に図を描いて数学の研究に没頭していました。 そこへローマ兵がやって来て、彼を軍に連行しようとしたのです。 今しも問題のすばらしい証明法を思い付いたばかりのアルキメデスが、問題を解くまで少し待って欲しいと懇願したところ、そのローマ兵は激昂し、無抵抗の老科学者を問答無用と切り殺してしまいました。

かくしてマルケルスは、非道の将軍として歴史にその名をとどめることになりました。 まことに、いみじくも近代の物理学者ホワイトヘッドが言ったごとく、

「軍事帝国ローマには、数学の作図に没頭していたがために命を落とした者など1人もいない」

のであります。

中世に目を転じれば、イタリアのガリレオ・ガリレイがいます。 アリストテレスの誤謬に満ちた学説を科学的実験によって打ち破り、望遠鏡による天体観測によってコペルニクスの地動説を支持し、近代物理学の礎を築いた偉大な科学者も、その進歩的な学説のために苛酷な宗教裁判にかけられ、ついには迷信と権力の権化であるローマ法王の前に膝を屈することとなります。

裁判が終った時思わずつぶやいた、あまりにも有名な彼の言葉、

「それでも地球は動いている……」

は、科学者としての良心が言わしめた悲痛な叫びとして、我々の胸を打たずにはおきません。

近世では、酸素を発見して燃焼のフロジストン説を否定し、化学反応の定量化を確立して、近代化学の祖となったフランスのラヴォアジェがいます。 時あたかもフランス革命の真っただ中、不運なことに旧政府の役人でもあった彼は、革命政府によるでっち上げ告発を受け、裁判とは名ばかりの、一方的刑宣告の場に引き出されることになってしまいます。 心ある人々の必死の助命嘆願にもかかわらず、悪名高い裁判官コフィナルの、今に至るも有名な一言、

「共和国は科学者を必要としない」

によって死刑の宣告を受けた彼は、判決のわずか数時間後、断頭台の露と消えたのでした。

世界中の科学者達は驚き、激しい非難の声を上げて嘆き悲しみました。 中でもラヴォアジェの友人であった数学者ラグランジュは、次のような怒りの言葉を残しています。

「彼の首を切り落とすにはほんの一瞬でこと足りたろうが、彼と同じ頭脳を作り出すには百年かけても十分ではなかろう!」

20世紀最大の物理学者アインシュタインも、近代において権力と戦った1人です。 不滅の科学的偉業を成し遂げた彼も、ユダヤ人であるが故にナチスによる迫害を受け、ついには故国ドイツを追われアメリカに亡命せざるを得なくなります。 彼は平和をこよなく愛して、戦争を始めとするあらゆる暴力を心から軽蔑し、常に圧制に反対して世界中の虐げられた人々を擁護し、原子力の原理的発見者としてその平和利用を切望し、機会あるごとに自ら原水爆の廃絶を世界に訴え続けました。

「この巨大な力を解放した我々科学者には、原子力が人類の幸福のためにのみ使われ、人類を皆殺しにするために用いられないように制御しなければならないという、全てのものに優先する責任が負わされているのです。 また我々人類は、戦争のための計画と平和のための計画とを、同時に立てることはできないのだということを、はっきりと認識しなければなりません。 原子エネルギー問題解決のカギは、我々人類の心の中にあります」

世界中に無意味な殺し合いや、愚かしい論議が満ちあふれていた狂気の時代を、感情に曇らされることなく生き抜いた人物の理性溢れる声を聞くことは、心爽やかになる気がします。 我々に呼びかけているのは、理性の中に根ざした善意を持った人の声であり、それは世界の良心の声でもあります。 彼の名は、憎悪を説き、理想を攻撃し、戦争を悪用する人々からは、憎しみと嘲笑の的とされ、人間を信じ、理想を追及し、自由と平和とを愛して止まない人々にとっては、人類の理想と進歩的な創造力の象徴となったのです。

そして1955年4月、第1回国際科学者会議における原水爆禁止宣言文に署名した1週間後、その生涯をかけて科学の発展と平和の実現に努力した、真の意味で偉大な科学者アインシュタインの命は、春の淡い夕陽とともに静かに燃えつきたのでした。

○科学的研究法

科学的研究とは、一見したところ多種多様な現象からその奥底に潜む普遍的な原理を帰納的に推理・洞察し、色々な現象を統一的に説明すると同時に、その原理から演繹的に予測される現象を推測し、実験や観測によってそれを確認したり修正したりしながら理論を確立していく作業です。 これを「仮説演繹法」といいます。 この仮説演繹法の作業手順を、文化人類学者の川喜田二郎博士が考案した「W型解決法」にあてはめると下図のように模式化することができます。

W型解決法の応用による仮説演繹法の手順

書斎科学というのは問題提起、仮説や理論の構築、実験結果の実質科学的評価など主として頭の中で行う作業だけで成立する科学で、数学や理論物理学がこれに相当します。 野外科学というのは実験を行うことができず、現場の調査や観測が中心となる科学のことで、社会科学の多くがこれに相当します。 実験科学というのは実験や試験を中心とした科学のことで、単に「科学」と言えばこの実験科学を思い浮かべる人が多いと思います。

仮説演繹法による科学研究は、上図のようにこの3種類の科学をW字型に組み合わせた手順で行い、理論を確立していきます。

ちなみにW型解決法を仕事に応用するとPDCA(Plan、Do、Check、Action)などのマネジメント・サイクルを詳細化したものになり、それにマクレガーのY理論を組み合わせたものが近代的な業務管理手法の代表的なものである──なんてぇことは僕には全く興味が持てません。 OJTやOffJTなんて、クソくらえっ!凸(-"-) > 会社の人事部

……つい私情に走ってしまい、失礼しました。 実際の科学的研究活動は、経験と独創力から産み出された優れた研究仮説や理論を主体として、研究法の論理と技術とで正しく方向付けしながら、実行力と研究費によって進めていく作業です。

仮説や理論に裏打ちされず、目的のはっきりしない研究はやってもあまり意味がありませんし、正しい実験計画のない研究は地図を持たない登山のようなもので、多くの時間と費用を無駄にし、その挙句、結果が得られなかったり、時には間違った結果を得たりします。 また実行に必要な人・物・費用・時間(いわゆるヒト・モノ・カネ・ヒマ)がなければ動きがとれません。

日本の研究環境は、外国と比べヒトは揃っているのです(と僕は信じています)が、モノとカネが絶対的に不足していると言われています。 確かに欧米の特に基礎研究にかける費用と情熱には驚くべきものがあり、頭脳流出もむべなるかなという思いがします。

近代科学、特に自然科学では観測データを可能な限り数量化し、理論を数式で表現することが多いため、科学用言語として数学が用いられるようになり、中でも演繹的な微積分学と、帰納的な統計学とが重宝されています。 微分とは「微(カス)かに分った」、積分とは「分った積(ツモ)り」などと言われていて、学生時代、我々をさんざん苦しめた不倶戴天の敵です。 統計学あるいは推計学(推測統計学)も何かと人を悩ます疫病神で、特に生物学分野や社会科学分野の人達が被害にあいます。

近代科学の父ガレリオ・ガリレイは、

「その書(自然)は数学の言語で書かれている」(『偽金鑑識官(1623年)』山田慶兒・谷泰訳、中央公論社刊より、一部改変)

という名言を残していますが、憂鬱なことにこの言葉はどうやら真実のようなのです。 我々庶民には全く頭の痛い話ですが、今のところ他にうまい方法もないので致し方ありません。

自然科学と違い、社会科学における野外科学では観測データが数字で得られない場合も多々あります。 そのようなデータを整理・統合するために、川喜田二郎博士は発想法に基づくKJ法という手法を開発しました。 この発想法は色々な所に応用が利き、僕のお気に入りの考え方です。

○発想法(abduction)

古代ギリシャの哲学者アリストテレスが考案した論理的思考法のひとつで、演繹法(deduction)と帰納法(induction)を合わせたような、第3の思考方法です。 演繹法と帰納法は有名ですからよく御存知だと思いますが、念のため簡単に説明しますと、演繹法とは延々と駅を連ねていくような方法で、帰納法とは昨日へ昨日へとさかのぼっていく方法である……などという説明を、知らない人にしてはいけません。(^^;)

3種類の論理的思考法

演繹法とは、ある事実や仮定に基づいて、それから論理的に導くことのできる事項を次々と推理していく発散的思考法で、三段論法や公理から定理を証明していく数学的思考法がこれに相当します。 例えば、ある日突然、宇宙からやって来たラムという名のキュートな少女が、地球の浮気っぽい少年アタルに一目惚れしてしまいました、さあいかなることに相成りますやら……などということを連想していくのが演繹的思考法でありまして、これはマンガやSF小説の最も得意とするところです。

この思考方法は非常に突飛な設定をしておいて、そこから話を展開していくシチュエーション・ドラマと呼ばれる物語作りにも応用できます。 大昔のアメリカ製TVドラマ「奥様は魔女」や「ミスター・エド」や「母さんは28年型」、比較的最近の映画では「ゴースト・ニューヨークの幻」「天使にラブソングを…」、そして弓月光の傑作マンガ「ボクの初体験」などがシチュエーション・ドラマの典型です。

帰納法というのは、反対に一見多種多様な個々の事実からそれらに共通する根本的かつ普遍性なことを抽出していく収束的思考法で、自然科学全般や統計学がこれに相当します。 例えばAで始まる名前の町で、Aを頭文字に持つ人物が殺され、次にBで始まる名前の町で、Bを頭文字に持つ人物が殺され、さらに同じような事件が次々と起こっていく、その理由や如何に?……などということを推理するのが帰納的思考法でありまして、これはもう言わずと知れた推理小説の独壇場です。

この思考方法はオチを先に考えておいて、それに合わせて設定を考えていく物語作りにも応用できます。 小説家のO・ヘンリーがそれを得意としていて、「最後の一葉」、「二十年後」などが典型的な作品です。 また映画「スティング」とか、星野之宣の好短編マンガ「残像」などもその作り方をしたと思われます。

発想法は演繹法と帰納法を合わせたような収束かつ発散的思考法で、西洋の合理的な思考法とは相入れず、ずっと発達せずにいましたが、近年になり、日本の川喜田二郎によって「KJ法」として定式化されました。 物語で言えばサミュエル・ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」とか、つげ義春のマンガ「ねじ式」とか、フェリーニの映画「8 1/2」などが発想法的思考法による作品と言えましょうか。

KJ法は元々は野外科学データの効率的な整理法として考案されたものですが、会議や討論を効果的に進める手法として、学校や企業などでも大いに流行しました。 昔々、当時はまだ珍しかったKJ法の合宿研究会があり、高校生だった僕も参加したことがあります。 何しろ感受性豊かな(と思っていた(^^ゞ)時代ですから、その研究会で強烈な印象を受けてしまい、一時期、やたらとKJ法に凝りました。 今でもその時の影響が残っていて、色々なことにKJ法的な方法を使っています。

KJ法は一言で言えば「目と手と頭で考える思考法」で、色々と多彩な手法が開発されています。 最も代表的な「KJ法A型」では、最初に多種多様な情報をできるだけ短い文章で表現して、それを小さな紙切れに書き込みます。 そしてその紙切れをB紙などの上に置いて、似た物同士をグループ化し、端的な表題を付け、さらにそのグループ間の関係を図式化します。 このように、言葉と図をうまく組み合わせることにより多種多様な情報を統合して、その内容と相互関係を把握しやすくすると同時に、新しい発想をしやすくします。 また手を使った作業を通して、情報が自然と頭に入り、記憶に残ることにもなります。

発想法に関しては色々な解説書がありますが、やはり本家本元の「発想法」および「続・発想法」(ともに川喜田二郎著、中公新書)が一番お勧めです。 興味のある人は、ぜひ読んでみてください。

○主要価値類似性モデル

ある問題に関する価値観と世界観を共有することにより、一般人と専門家の間に信頼感が生まれ、お互いに科学的知識を共有することができる」というモデルです。

近年、様々な自然災害や大規模な事故などが多発する中で、「安全・安心」に対する関心が高くなっています。 それに対して従来は、専門家の能力と誠実さを二大要素とする信頼モデルと欠如モデルに基づいた、「一般市民の科学理解(PUS:Public Understanding of Science)」という啓蒙型の考え方で対応してきました。

○信頼モデル
「専門家がその能力を使って誠実に説明すれば一般人の理解が得られる」というモデル
○欠如モデル
「一般人が安全で安心と思わないのは科学的知識や理解が欠如しているからであり、専門家がそれを補うことによって安全・安心が得られる」というモデル

しかし現在は、主要価値類似性モデルに基づいた「科学・技術への市民参加(PEST:Public Engagement with Science and Technology)」という市民参加型の考え方が主流になりつつあります。 その代表的なものが「サイエンスカフェ」や「サイエンスショップ」という活動であり、「コンセンサス会議」や「市民陪審」といった市民参加型科学評価・意思決定です。 そしてこのような活動によって科学に対する市民権(科学的シティズンシップ)を拡大することが、現在および将来の重要な課題だという認識が徐々に広がりつつあります。

○サイエンスカフェ
喫茶店などのリラックスできる場所で、科学や技術に関する話題について一般人と専門家が対話し議論するイベント
○サイエンスショップ
科学や技術に関する専門性が必要な問題について、一般人からの相談や依頼に応えて専門的な助言を行ったり調査・研究を行ったりする、市民サポートのための科学・技術相談所
○市民参加型科学評価・意思決定
サイエンスカフェのように一般人と専門家が双方向の対話を行い、一般人は科学的知識を得て、専門家は科学的知識を実生活に役立てるための知識を得て、お互いにその内容を評価し、両者が協力して意思決定を行うこと

現在の科学分野の事柄とか、技術分野の事柄とか、政治分野の事柄の事柄は、その分野の専門家と政治家だけが意思決定を行い、一般人が容易に参加できないことに大きな不満があると思います。 そしてその不満が専門家と政治家に対する不信感につながり、いくら専門家や政治家の話を聞いても、僕も含めてσ(^^;)一般人が安全・安心と感じないのでしょう。

その不満を解消するには科学に対する市民権の拡大が重要であり、そのためには科学・技術への市民参加が必要です。 そして科学・技術への市民参加には、一般人と専門家の間の双方向のコミュニケーションが必要不可欠です。 そのためのツールのひとつとして、インターネットを用いたSNS(Social Networking Service)は大いに有望だと思います。