玄関雑学の部屋雑学コーナー放射線による発がん

解説12

放射線ホルミシス効果

参考までに、「微量の放射線を浴びることは健康に良い」という放射線ホルミシス効果について少し紹介しておきましょう。 これは1980年代にアメリカ・ミズリー大学のT.ラッキー教授が最初に提唱したもので、「どんなに微量の放射線でも人体に有害である」という国際放射線防護委員会(ICRP)の主張に反論したものです。

大阪府立大学先端科学研究所の米澤教授らによる研究では、マウスに0.5Gy(≒500mSv)程度の低線量の放射線を照射し、その後で 6〜7Gy(≒6〜7Sv)程度の放射線を照射すると、低線量の放射線を照射しなかったマウスに比べて死亡率が低下したという結果が出ています。 これを米澤効果といい、低線量の放射線が、放射線に対する耐性をマウスに作ったのだろうと解釈されています。

一方、大阪大学の近藤宗平教授、国立がんセンターの祖父江友孝放射線研究部長、岡山病院の古本嘉明院長らが、ラドン温泉である鳥取県・三朝(みさき)温泉地区の住民を対象にして、 1950年代から30年にわたる大規模な疫学調査を行いました。 三朝温泉地区の住民はラドン温泉から放射される微量の放射線を日常的に浴びていて、しかもラドンを含む井戸水を飲料水として利用していましたが、疫学調査の結果では、対照群とした放射線を浴びていない鳥取県の他の地区と比べてガンによる死亡率が低かったのです。 (Mifune M, et al. Jpn J Can Res. 1992;83:1-5)

この疫学調査の結果とラッキー教授が提唱した放射線ホルミシス効果が、ラジウム温泉とラドン温泉の効能の根拠になっています。 そしてラジウム温泉以外でも、自然食品や健康食品や健康器具を販売している店でラジウム鉱石を含んだ陶器で作った食器を「健康に良い食器」として販売していて、その効能書きに放射線ホルミシス効果が盛んに利用されています。

これらの動物実験の結果や疫学調査の結果については、二次資料しか見ていないため統計学的なチェックはできません。 しかし疫学調査の結果については、放射線量の微量さと死亡率の低さから考えて、三朝温泉と比較地区のガン死亡率の差は医学的誤差の範囲内の変動ではないかと思います。 つまりこの死亡率の差は、偶然誤差のいたずらでたまたま生じたものではないかと思います。

事実、同じ研究グループが調査期間や調査方法を少し変えて同様の疫学調査を行ったところ、この結果とは違って、三朝温泉と比較地区のガン死亡率にはほとんど差がなかったという結果になっています。 (Ye W, et al. Jpn J Can Res. 1998;89:789-796、Sobue T, et al. J Radiat Res. 2000;41:81-92)

これらのことから、放射線ホルミシス効果が実際に存在したとしても医学的誤差を超えるほどの効果とは思えず、実質的な意義はほとんどないと思います。

低線量領域における被曝量とリスクの関係

偶然誤差と系統誤差の存在を考慮すると、原資料のデータを用いて被曝量とガン死亡率の関係を検討する場合、低線量領域では誤差の影響が無視できず、正確な関係を見極めるのは困難です。 そして大雑把に言えば、200mSv以下の領域における被曝量とガン死亡率の関係を正確に求めることは事実上不可能であり、100mSv以下では、たとえ放射線の影響——悪影響にせよ好影響にせよ——があったとしても、それは医学的な誤差範囲内であり実質的に無視できる程度だと思います。

そもそも1Svの被曝量で喫煙のガン死亡リスクの半分程度のリスクですから、100mSvの被曝量では喫煙の20分の1程度のリスクになり、現実問題として確実に検証できる大きさではありません。 動物実験等の結果から、喫煙のリスクの20分の1以上のリスクを持っている可能性があると示唆されるもの——例えば焼き魚のコゲ、各種香辛料、コーヒー等の嗜好品、自動車の排気ガス、大気汚染、携帯電話の電波等——は数多くありますが、人間を対象にした臨床試験や疫学調査で確実に検証できたものはほとんどありません。

また1Svの放射線がガンの死亡率に与える影響よりも、5歳の年齢差がガンの死亡率に与える影響の方が大きいのですから、被爆群と非被爆群の年齢が0.5歳つまり6ヵ月違えば100mSvの放射線の影響は年齢の影響に隠されてしまいます。

医学分野では年齢を整数に丸めて取り扱うのが普通であり、6ヵ月という値は誤差範囲です。 そのため被爆群と非被爆群の年齢をできるだけ一致させても、2群の年齢を±0.5歳の範囲内で一致させることは理論的に不可能です。 したがって低線量領域では放射線の影響よりも年齢などの背景因子の違いによる影響の方が大きくなり、放射線の影響を正確に見極めることは不可能です。

放射線が人体に与える影響の研究は、普通の研究と違って二重盲検法による無作為化比較対照試験が行えません。 そのため、どうしても原資料のような大規模な疫学調査に頼るしかありません。 そして現在のところ原資料以上に正確で信頼性が高い大規模なデータは存在しないため、低線量領域における放射線の影響をこれ以上正確に検討することは事実上不可能でしょう。

これ以上正確に検討するためには、原資料の少なくとも10倍以上の人数(60万人以上)の、被曝量を線量計で確実に測定した被爆群と、それと背景因子と生活環境・生活習慣を厳密に一致させた——年齢については1ヵ月単位まで一致させた——同数の非被爆群について、60年以上追跡観察し、全死亡者について病理解剖を行って死因を特定した大規模で正確なデータが必要です。

そのような大規模なデータが入手できるとしたら、現在のところ広島・長崎と同じような核兵器による被曝か、大規模な原発事故以外には考えられません。 僕としては、できればそのようなデータが入手できるような事態が決して起こらないことを願っています。

正当に怖がること

以上、「放射線による発がん」資料についてややこしい解説を長々としてきましたが、これでようやく終わりです。 寺田寅彦の有名な言葉に、

ものを怖がらなすぎたり、怖がりすぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはなかなかむつかしい」 (『小爆発二件』1935年11月、文学)

というものがあります。

放射線はまさに「正当に怖がること」が非常に難しいシロモノです。 例えば50mSv程度の放射線被曝を恐れて喫煙者がいる避難場所に避難すると、かえって発ガンのリスクを上げてしまうことになりますし、1mSv程度の内部被曝を恐れて野菜を食べないでいると、やはりかえって発ガンのリスクを上げてしまうことになります。 また甲状腺被曝を恐れて毒性の強いヨードチンキを飲んで副作用が発現したり、飲料水を飲まずに脱水症状になったりと、不正確な情報や偏った情報に煽られて闇雲に行動すると、かえってリスクを上げてしまう結果になってしまいます。

上図はイギリスのガン疫学者・ドールが色々な科学的データに基づいて推測したガンの原因の割合(左側のグラフ)と、日本のガン研究者・西岡一が色々なアンケート結果等に基づいて推測した、一般消費者がイメージしているガンの原因の割合(右側のグラフ)です。 この2つのグラフの大きな食い違いが、「正当に怖がること」の難しさを如実に表しています。 この右側のグラフを左側のグラフに近づけるためには、科学的データに基づいた正確な情報をみんなで共有するための地道で息の長い努力が必要です。

それと同様に放射線を正当に怖がり、正しい対処法を考えるためには、放射線に対する正確な科学的知識と、健康被害に関する科学的データに基づいた幅広く正確な情報をできるだけ沢山手に入れ、それをみんなで共有することが大切です。

上図の左側のグラフからわかるように、我々の周囲には放射線だけでなく多くのリスクが存在します。 全体的なリスクを減らすためには、それらのリスクの大きさと相互の関連性をできるだけ正確に見極め、どのリスクを減らせば全体的なリスクが最も効果的に減るかをよく考えて、冷静に行動する必要があります。

この解説がわずかでもその一助になれば幸いです。