あるn次の正方行列Aに別のn次の正方行列Bを掛けた結果が単位行列Inになる時、この行列Bのことを行列Aの逆行列(inverse matrix)といい、「A-1」と書きます。
逆行列が存在する行列はn次元ベクトル空間の基底を成分ベクトルとした正方行列であり、このような行列のことを正則な行列(regular matrix)といいます。 正則ではない行列は特異な行列(singular matrix)といい、成分ベクトルが基底ではない行列、つまり成分ベクトルの間に一次従属関係がある行列になります。
1次の正方行列すなわちスカラーの時、逆行列は次のように逆数になります。 つまり逆行列は逆数を拡張したものであり、行列の積の逆演算に相当します。 そして逆行列を定義することによって、行列の世界で和・差・積・除の四則演算が揃ったことになります。 (注1)
逆行列について次のようなことが成り立ちます。
正規直交基底を列ベクトルとする正規直交行列と、その転置行列つまり正規直交基底を行ベクトルとする正規直交行列は、次のようにお互いに逆行列の関係にあります。
また第6章の直交変換の式(6.5)と(6.6)は、次のようにお互いに変換/逆変換の関係にあります。
つまりあるベクトルに逆行列を掛けるという作業は、ベクトルの逆変換を行っていることに相当するわけです。 例えば2次元ベクトル空間R2つまり普通の平面で、基本的な座標軸をθだけ回転した時の座標軸を表す正規直交基底は次のようになります。
そしてベクトルxをこの回転座標系から見た時のベクトルyは次のようになります。
この直交変換はベクトルxを原点のまわりに−θだけ回転したことに相当します。 正規直交行列Z'の逆行列は元の正規直交行列Zなので、逆変換は次のようになります。 この逆変換はベクトルyを原点のまわりにθだけ回転したことに相当します。
x1、x2とy1、y2の関係が(7.3)式のようになることは直角三角形を利用して幾何学的に証明することができるので、興味のある方は証明してみてください。 ちなみにn次の正方行列Zが次の条件を満足する時、正規行列(normal matrix)といいます。
例えば、
例えば前述のθ回転する正規直交行列Zは次のように正規行列になります。 また対称行列は元の行列と転置行列が等しいので必ず正規行列になります。 (注2)
この正規直交行列Zを利用すると、複素数平面における指数法則と加法定理の関係をベクトルの回転で表すことができます。 次のような3種類の複素指数関数の間には指数法則が成り立ちます。 そしてこの式の両辺をオイラー(Leonhard Euler)の公式で置き換えると加法定理になります。
この関係を複素数平面上のベクトルxと、xを複素数平面の座標軸をαだけ回転した座標軸から見たベクトルyで表すと図7.2のようになります。
このように図7.2を頭に浮かべながら指数法則をオイラーの公式で置き換えれば、加法定理の有名な呪文「咲いた・コスモス・コスモス・咲いた」を唱えなくても加法定理を導き出すことができます。 そして複素数の掛け算は複素数平面上では回転に相当することも直観的に理解できると思います。
逆行列を求めるには、普通は掃き出し法(sweep out method)またはガウスの消去法(Gaussian elimination)と呼ばれる次のような方法を用います。
(2)〜(4)の操作をx11を軸(pivot)にして掃き出すという。
言葉で説明すると非常にややこしく聞こえますが、実際にやってみると――決して簡単とは言いませんが――思ったほど難しくはありません。 例を用いて実際に計算してみましょう。
検算のため元の行列に掛けてみると、次のように確かに単位行列になります。
通常、逆行列はコンピュータを利用して計算します。 しかし実際に手で計算してみると何となく感覚的に理解できた気になるので、ぜひ実際に計算してみてください。
自然数は足し算と掛け算に対して閉じています。 しかし掛け算によって記述された方程式の解b/aは、自然数の世界では常に存在するとは限りません。 つまり自然数は掛け算の逆演算である除算に対して閉じていないのです。 そこで除算に対して閉じるように逆数a-1を定義し、分数を作って数の範囲を広げました。
この時、aとbは自然数であり、普通は0を含まないことに注意してください。 もしa=0、b>0とすると、次のように非合理な方程式になります。 そのため0の逆元である0-1は定義できない、つまり自然数に対する0による割り算は定義できません。
またa=0、b=0とすると、次のように解が不定の方程式になります。 そのため0の逆元である0-1は不定になり、事実上、定義できません。 これらのことから0と自然数に対する0による割り算は定義できないことがわかると思います。
ちなみに0は古代インドで発見されました。 まず1世紀頃、無名のインド人によって0を使った位取り記数法が発明され、628年にインド人数学者ブラーマグプタによって現在の0の概念に近い計算法が考え出されました。 これは数学の大革命と言うべき画期的な出来事でした。
除算と同様に、正の数は加算の逆演算である減算に対して閉じていないので、閉じるように負数を定義して数の範囲を広げました。 その結果、数は有理数まで広がり、四則演算に対して閉じることになりました。 このような集合を体といいます。
さらに有理数はベキ乗の逆演算に対して閉じていないので、閉じるように無理数を定義して数の範囲を広げました。 そして連続性のために超越数も加え、数は実数まで広がりました。
さらに実数は負数のベキ乗の逆演算に対して閉じていないので、閉じるように虚数を定義して数の範囲を広げました。 この結果、数は複素数まで広がり数の体系が完成しました。
逆行列は常に存在するとは限らないので、行列は四則に対して閉じていません。 しかし特殊な一般化逆行列を定義し、行列の範囲を広げることによって四則に対してほぼ閉じるようにできます。
このあたりの命名法の不明確さは第6章の(注1)で述べた直交行列−直交変換の命名法の不明確さと関連していて、はなはだ混乱しやすいので注意が必要です。