ベクトルと行列を直感的に理解するには、座標系による幾何学的表現が役に立ちます。 例えば2次元ベクトルxとyの第1成分を横軸に、第2成分を縦軸にして直交座標系で表現すると、図4.1のようにそれぞれ原点から点(1,2)、点(3,1)に向かって引いた矢印で表すことができます。
このようにベクトルを矢印で表現することのできる空間をベクトル空間(vector space)または線形空間(linear space)といい、「V」と書きます(本来はベクトルの集合そのものを「ベクトル空間」というのですが、空間にベクトルがあると幾何学的にとらえた方が理解しやすいと思います)。 そしてベクトルの次元がnでその成分が全て実数の時、n次元(実)ベクトル空間(n-dimensional real vector space)といい「Rn」と書きます。 例えば図4.1はR2になり、つまりはごく普通の平面に相当します。
R2はごく普通の平面ですから、通常のユークリッド幾何学が成り立ちます。 同様に、Rnではn次元に拡張したユークリッド幾何学が成り立ちます。 そのためRnのことをユークリッド(ベクトル)空間(Euclidean vector space)ともいい、通常の平面をn次元まで拡張したものに相当します。
図4.1に示したように、ベクトル空間R2ではベクトルの演算は次のように表現されます。 まずベクトルの和は、ベクトルxの終点にベクトルyを平行移動し、原点からその終点に向かって引いた矢印になります。
またスカラーとベクトルの積は、ベクトルxをその矢印の方向――これをベクトルの「正の方向」といいます――へ2倍に伸ばしたものになります。
R2をn次元に拡張したベクトル空間Rnでも、ベクトルの演算を同様に表現することができます。 ただしnが4以上の時は、それを2次元の平面上にグラフ表示することはもちろん、頭の中でイメージすることさえ難しいと思います。 そこで図1を見ながら、「何となくそんなもんか…」としたり顔をしておいてください。
ここでベクトルの大きさを定義しておきましょう。 図4.1からわかるように、ベクトルxの長さは三平方の定理から次のようになります。
これをベクトルの大きさ(length)またはノルム(norm)といい、「‖x‖」と表します。 n次元ベクトルの大きさも同様に次のように定義され、これは三平方の定理をn次元まで拡張したものになります。
nが1の時つまりスカラーの時、ベクトルの大きさはxの絶対値|x|になります。 このことからベクトルの大きさが絶対値の自然な拡張になっていることがわかり、絶対値の記号「|」に似せた「‖」という記号を用いる理由が納得できると思います。
また大きさが1のベクトルのことを単位ベクトル(unit vector)といいます。 単位ベクトルの代表的なものとしては基本ベクトルe1、…、ei、…、enがあります。 ゼロベクトルではないベクトルxは、次のようにして単位ベクトルに変換することができます。
次は内積について考えてみましょう。 ベクトルの差および大きさと内積の定義から、次の式が成り立ちます。
ここで図4.2のようにベクトルxとyのなす角をθとすると、これら2個のベクトルによって形作られる三角形に余弦定理を適用して次のような関係が成り立ちます。
(4.3)式と(4.4)式から次のようになります。
したがってベクトルxとyの内積は、xの先端からyに垂線を下ろした時の影の長さ‖x‖cosθを‖y‖倍した値、つまりxをy上に正射影した時の影の長さ‖x‖cosθを‖y‖倍した値になります。 そしてこれは‖x‖cosθを1辺とし、‖y‖をもう1辺とした長方形の面積に相当します。 そのためyの大きさが1つまり単位ベクトルの時、内積はxをy上に正射影した時の影の長さそのものになります。
‖y‖が1ではない時の内積も‖x‖cosθに‖y‖を掛けることによって影の長さをyの世界の単位に換算していると考えれば、面積ではなく長さと解釈することができます。 つまり内積を求めるということは、あるベクトルを別のベクトルに射影して、その影の長さを求めていることに相当します。
以上のことから、次のような関係が成り立ちます。
このようにベクトルを空間上の矢印に対応させて幾何学的に考えると、直観的にとらえやすく、数式の意味を理解しやすくしてくれます。 ただし注意しなければならないことは、ベクトルは空間上の矢印に対応させて考えられますが、矢印として考えなければならないわけではないということです。 (注1)
ベクトルと行列は共通の要因を持つ一連のデータの集まりにある種の線形演算を定義した線形代数という代数学の仲間であって、幾何学や物理学の仲間ではありません。 ベクトルを矢印に対応させるのは、あくまでも数式の内容を直感的に理解しやすくするためにすぎません。 ただ物理学分野では実在する力にベクトルを対応させ、線形代数を利用して自然現象を記述することが多く、ベクトルの演算定義も物理学に利用しやすいように決められてきました。 そのため数学分野でも、ベクトルをあたかも実在するもののごとく矢印で表す風習が残っているのです。
この風習のせいで、我々が最初にベクトルを習う時にもいきなり恐ろしげな矢印を見せられ、
「ベクトルとは大きさと方向を持ったモノである!」
ここらあたりで靴のかかとをカチンと合わせ、ベクトル空間の呪縛から逃れ、恐怖の固定観念を打ち破って、虹の彼方に飛び立とうではありませんか! (この文章の意味がおわかりにならない方は、ジュディ・ガーランドが活躍する往年の名画「オズの魔法使い」を観ましょう!)