「えぇーっ!?」
トモヒトとミミは異口同音に叫んだ。
「で、でも、それじゃあ、自然現象を観測する意味がなくなっちゃいますよ!」
トモヒトは、青年が口にした驚くべき言葉の真意を読み取ろうと、小さな目を見開いて青年の顔を見つめた。 そのトモヒトの視線を穏やかに受け止め、青年は静かな自信に満ちた声で続けた。
「自然現象を観測するということは、結局のところ、ある時刻に、ある場所で、ある現象が起こったということを、観測者が自分の時計と物差しで測定して、それを記録することですね?
でも、その時計がいつでもどこでも一定の速さで時を刻み、物差しがいつでもどこでも一定の長さだということを、一体誰が保証するんですか?」
「それは、当然……、やっぱりそれが科学の基礎ですし、誰でもが認める絶対的な真実ですから……」
「絶対的な真実などではありません、暗黙のうちに正しいと考えている、単なる仮定にすぎないんですよ。
なぜなら、今だかつてそのことに疑いを持った人もいなければ、そのことを実験によって確認した人もいないんですからね」
穏やかな表情はそのままながら、青年の口調はきっぱりとしていた。 強い自信の光に輝くその瞳は相手を圧倒し、しかも相手を惹きつけてやまない、不思議な迫力に満ちている。 トモヒトとミミは、その瞳に視線を奪われたまま唖然として声もなかった。
青年はフッと目の光を和らげると、今度は淡々とした調子で同じ内容を繰り返した。
「時間と空間が常に一定だということは、光の速度が常に一定だという実験事実に比べれば、全く根拠のない単なる仮定にすぎません。
にもかかわらず我々は、知らず知らずのうちに、それが絶対的に正しいという先入観を持ってしまっているんです」
「で、でも、それじゃあ、自然現象を記録する方法が……、時間も空間も使えないとしたら、一体どうやって自然現象を記録するんですか?」
青年の瞳から何とか目をそらしたトモヒトは、ようやく言葉を取り戻して、混乱した思考の中から泡のように浮かび上がった疑問をそのまま口にした。
「トモヒト君……」
青年はトモヒトにじっと視線を注いだ。
「時間とは、空間とは、一体何でしょうね? 一体どういうものなんでしょうね?」
つぶやくようにそう言った青年の声音は、自らに問いかけるような、どこか孤独な響きを持っていて、その眼差しは、目の前の相手を突き抜け、宇宙の深遠を眺めているような、遥かな遠い色に澄み渡っていた。 青年の瞳を覗き込んだトモヒトは、深い井戸の底に思いがけず星空を見つけたような、不思議にしいんとした感動に打たれて、またしても言葉を失ってしまった。
「ニュートンは時間と空間を絶対的なものとして彼の力学理論を組み立てましたが、その基礎となった時間と空間は、実は実験や観測でしっかりと確認されたものではなかったんですよ。
ですからもう一度原点に戻って、光速度が一定であるという実験事実に基づいて、逆に時間や空間を定義し直す必要があるんです」
「時間や空間を定義し直すって、それ、一体どうやるんです?」
今度はミミが真剣な態度で尋ねた。 いつもの茶目っぽさは影をひそめ、魅入られたように青年の顔を見つめている。
「そう、さっきの列車の例で考えてみましょうか……」
青年の瞳から遠い色が消え、また現実の世界に戻ってきたような、生き生きとした様子になった。
「タバコに火を付けた客Tのすぐ前に、別の客Sが座っていたとしますよ。 そうしますと、その客には、タバコの光はまっすぐ自分に向かって来て、ある時間経って目に届いた、と見えますね。 この時、その客Sが自分の時計で測った時間をt'とします。 この同じ現象を線路脇の人Pが見ますと……」
と言いながら、青年は次のような図を描いた。
「……このように、客Tのタバコから斜めに進んで行った光が、ある時間経って前の客S'に届いた、と見えるわけです。 この時、その線路わきの人Pが自分の時計で測った時間をtとします」
図から目を上げると、青年は確認するような視線をミミとトモヒトに向けた。 二人が肯くと、さらに説明を続けて、
「先程の考察から、このtとt'が同じ値である必要はありませんね。 そこで光の速度をc、列車の速度をvとしますと、列車の中の客Sが見た光の進んだ距離はct'、線路脇の人Pが見た光の進んだ距離はctとなって、線路脇の人Pから見て、その間に列車はvtだけ進んだわけですから、TとT'とS'が作る直角三角形に、ピタゴラスの定理をあてはめて……」
と言いながら、前の図の下にさらに図をつけ加えた。
「……となって、t'はtよりも少し小さくなりますね。
つまり、列車の中の客Sの持っている時計は、線路脇の人Pから見ますと、少しゆっくり動いて見えることになるんです。
また、空間の距離を『光の速度に経過時間を掛けたもの』と定義しますと、時間がゆっくり経過するのに応じて、見かけ上距離も短くなりますから、
線路わきの人Pから見て、列車の中の客Sの持っている物差しは、√{1−(v/c)2}の比率で縮んで見えることにもなるんです」
「へっえーっ、うっそみたい!
時計がゆっくり動いて、物差しが縮んじゃうなんて、そんなこととっても信じられないわ、あたしには!」
ミミが目をクリクリさせて素っ頓狂な声を上げた。 しかし、驚くとますます愛らしくなる独特の表情のお陰で、その様子は不真面目な感じを与えず、むしろ彼女の心からの驚きを素直に表していた。
トモヒトも驚いていたが、ミミが単純に、いわば子供っぽく驚いたのにひきかえ、より深い意味で繊細に驚いたのだった。 彼は青年が書いた数式を食い入るように見つめて、
「ぼ、僕にも信じられません……、でも、でも、これ、例のローレンツの収縮と全く同じ式ですね。 驚いたなあ……」
とつぶやいたまま、いつまでも目を離すことができなかった。 数式に慣れたトモヒトの目には、その数式が無限の内容を持っているように映ったのだ。
「何、そのローレンツの収縮って?」
怪訝そうなミミの質問に、トモヒトはなおも数式から目を離さず、
「ローレンツって物理学者が、マイケルソンとモーレーの実験結果を説明するために考えた理論でね。
エーテルに向かって運動する物体は、√{1−(v/c)2}の比率で縮むって考えなんだよ。
そうすれば、光の速さが遅くなったぶん距離が短くなって、見かけ上、光の速さは変わらなくなっちゃうんだよね」
「へー、そうなの。
でも、何かこじつけみたいで、嘘っぽい理論ねェ」
「そうなんだよ。
仮定があまりにも技巧的すぎて、僕にも納得できなかったんだよ」
ようやく目を上げてミミを見たトモヒトは、数式の書かれた紙を指さし、
「でも、今のこの考えなら、そんな技巧的な仮定はなくても、全く同じ結論が導けちゃうんだよ。 しかも、エーテルなんていうわけのわからないもんを、わざわざ仮定する必要もないしね。 ほんとにすごいなあ、これは……」
と、吸い付けられるように、またしても数式に視線を戻した。
青年は穏やかな会心の笑みを浮かべて二人の様子を眺めていたが、やがて、淡々とした中にもほのかな熱意を感じさせる口調で言った。
「トモヒト君、もしこの考えが正しいとすると、こういったことは考えられませんか、光速度一定という現象は確かに実験事実ですが、はたして光だけが特別だろうか、と?」
「え?
と、言いますと……?」
「つまり、光を始めとしてあらゆる物理現象は、どんな観測者にとっても同等ではないか、言い換えますと、あらゆる物理現象は、観測者の状態によらず、全てが同じ形式で表されるのではないか、とね」
「ええっ!?
で、でも、いくら何でも、そこまではちょっと……。
ニュートンの運動方程式なんかも、観測者が止まってる時と、動いてる時とでは違うものになりますし……」
あまりに事も無げに科学の常識を破る青年の言葉に、トモヒトは何かしらあせったような、気後れしたような気持ちになって、形ばかりの反論を口にしたが、その声は次第に先細り、やがて弱々しいつぶやきのようになってしまった。
「今までの時間と空間という概念を使えばね。 しかし、今説明したような、実験事実に基づいた新しい時間と空間の概念を使えば、うまくすると、観測者が止まっていようと動いていようと、全く同じ形式で記述できるのではないでしょうか? ちょうど、光がそうであるようにね」
トモヒトの弱々しいつぶやきに対して、青年は穏やかに、しかしきっぱりとした口調で答えた。
「それは……、でも……」
「自然界というのは、本来そうしたものではないでしょうか。
絶対的な時間とか空間とか、静止とか運動とかいったものはなく、あらゆるものが相対的で、ただ自然法則だけが絶対的であるような、そんなものではないでしょうか?
僕には、そう思えて仕方がないんですよ」
「………」
「そして、ことによると、この宇宙の全ての自然法則は、たった1つの式で表されるのかもしれません」
その眼差しはまたしても遠い遥かなものを眺めており、その瞳は前にも増して強い確信の光を帯びていた。 トモヒトは、青年が真に見ているものを、何物にも縛られない澄み切った心の目でじっと見つめているものを、ようやく理解できた気がして、恐れにも似た不思議な感動が胸にわき上がるのを覚えた。 青年は自然そのものを見ているのだ。 諸々の現象を通して、その底に横たわる自然の根源を、子供のように純粋な眼差しで、神のように透徹した瞳で見つめているのだ。
「……そんなこと、正直言って、考えたこともありませんでした。
あなたはそれを研究してるんですか? あなたは科学者なんですか?」
「いやあ、とんでもない!
僕は科学に興味を持っている、単なる公務員にすぎませんよ」
青年はくすぐったげな顔つきで軽く笑った。 すると、それまでのどこか神秘的な表情が、暖かい人間味溢れるものに変わり、急に身近に戻って来たという感じになった。
「公務員って、やっぱ、学校の先生か何かですのね?」
ミミが早合点してそう尋ねると、青年はまたくすぐったく笑って、
「いやいや、ただの役人ですよ。
特許局に勤めているんです」
「あら、そうなんですか?
それにしては、随分科学に詳しいですわねェ」
「とんでもありません。
ただ、趣味で物理学をちょっと研究しているだけなんですよ」
青年は少し顔を赤らめて、照れ隠しに頭をかいた。 その少年のようなはにかみに、トモヒトはホッと心暖まる思いがして、わけもなく嬉しくなった。
「やっぱり、今みたいな理論を研究してるんですか?」
今度はトモヒトが尋ねると、青年は控え目に微笑みながら、
「ええ、まあ、一応……。 でも、まだ理論とか研究とかではなく、単なる夢物語みたいなものでしてね。 暇があれば少し発展させてみよう、などと考えてはいますが……」
と、さっきまでとは別人のように、もじもじと歯切れが悪かった。
「何という理論なんですか?」
「さあ、理論というより、まだ原理だけしか考えていませんから……」
青年は言葉を探すようにしばらく視線を宙に漂わせ、
「……そう、絶対的なものをなくした、『相対性原理』とでも呼びましょうかね、はは……」
「相対性原理ですか……。
もし、その原理に従って今の物理法則を書き直すことができたら、ほんとにすごいですね。
物理学の、いや、科学の革命ですよ。
ニュートン以来の大革命になっちゃいますよ、それは!」
「もしもそれができれば、の話ですがね、ははは……」
青年は何気ない口振りで控え目に笑ったが、トモヒトには、そんな青年の態度が、なぜか穏やかな自信に裏打ちされた、静かな落ち着きとも思えた。 と、急に青年が部屋の時計を見て驚いた表情になった。
「おやおや、もうこんな時間とは! つい、話に夢中になってしまいました、そろそろ家に帰らないと……」
それから、そそくさとバイオリンを片付けると、にっこりしてミミとトモヒトに手を差し出し、
「じゃあ、これで失礼しますよ、ミミさんにトモヒト君。 おかげて、今夜は楽しく過ごすことができました」
ミミとトモヒトも交互に手を差し出しながら、別れの挨拶を口にした。
「いえいえ、こちらこそ、面白いお話を聞かせていただいて、すっごく楽しかったです!」
「今日は随分勉強になりました。
また機会があったら、もっと色々なお話を聞かせてください。
ありがとうございました」
青年は顔一面に笑みをたたえて二人と握手すると、バイオリンケースを抱えて静かに部屋から出て行った。