「へェー、じゃ、一体どういうことになっちゃうの?
地球はエーテルに対して動いてないわけ?」
「うん、二人の実験結果からはそうとしか考えられないんだけど、そうすると、無茶苦茶なことになっちゃうんだよね」
「無茶苦茶なことって?」
「つまりね、地球がエーテルに対して動いてないってことは、地球が全宇宙の中心で、エーテルと一緒に止まってて、他の全部が地球の周囲を1日に1回転してるってことか、結果としてはそれと同じだけど、エーテルが地球にくっついてて、地球と同じように1日に1回転しながら、宇宙の中を動きまわってるってことなんだよ」
「ハー、それじゃまるっきり天動説じゃない!
いっくら何でも、今更天動説はないわよねェ」
「そうなんだよ。
地動説はもう説なんかじゃなくて、れっきとした科学的事実だし、全宇宙に満ちているエーテルが、地球に合わせて回転できるわけないからね」
「じゃ、どう考えればいいの?」
「どう考えても辻褄が合わないんだよ。
だから、みんな納得できなくて悩んでるんだよね」
トモヒトはまるで自分でやった実験の結果が悪かったかのように、眉を寄せて宙を睨んだ。 そんなトモヒトに、ミミは茶目っぽい視線を投げかけながら、
「あら、トモヒトだけが悩んでるわけじゃないの?
どっかの偉い学者さんが、何かうまい理屈を考えてんじゃない?」
「とんでない!
そりゃあ色々な理論は提唱されてるけどね、僕の見たとこ、どれも屁理屈に近くて、納得できないものばっかりなんだよ。
これは今の物理学界最大の問題なんだよ、ほんと」
からかい半分のミミの言葉に、例によってトモヒトは生真面目に反応し、躍起になって声を強めた。
「へェー、そうなの。
現代科学でもわかんないことってあるのね、まだ」
「わからないことだらけだよ、ほんとは。
1つの謎が解決されて、新しいことがわかるたびに、また新しい謎が2つも3つも出てきちゃうんだからね。
まあ、それだから自然って面白いんだけどね」
「そりゃそうね、何でもかんでもわかっちゃったら面白くないし、だいち、商売あがったりだもんね、科学者の」
ミミの冗談とも本気ともつかない言葉に、トモヒトがぼんやり笑っていると、二人のやり取りをにこやかに聞いていた青年が、肯きながらおもむろに口を開いた。
「いや、なかなか見事な説明でしたよ、トモヒト君。 今の物理学が抱えている問題点を、実に明確にしてくれました。 確かに君の言うとおり、物理学は袋小路に迷い込んでいますが、僕には、科学者が自ら問題を難しくしてしまっているように思えるんですよ」
青年の声には不思議に確信めいた響きがあって、トモヒトは思わず彼の顔をじっとうかがった。
「え?
と、言いますと……?」
「ご存じのように、ガリレオ以来、近代科学は、科学的な実験結果に基づいて自然を理解しようとしてきましたね。
もう一度その原点に戻って、実験結果は結果として、素直にそのとおり受け取ればいいんじゃないでしょうか?」
「そのとおり受け取ると言いますと、つまり……?」
「つまり、マイケルソンとモーレーの実験や、色々な観測結果から確認されているように、『光の速度は、光源や観察者の運動とは無関係に、常に一定である』と受け取るんですよ」
「でも、それじゃあ色々な矛盾が起こっちゃいますし……」
トモヒトはふに落ちない思いで青年を見つめたが、青年は微かに輝き始めた瞳を穏やかな笑みでくるみ、トモヒトの視線を静かに受け止めた。
「本当に矛盾が起こると思いますか?
見かけ上は矛盾に思えても、それは先入観を持って実験結果を見ているからではないでしょうか?」
「先入観……?」
「先入観って、それ、どういうことです?」
青年が漂わせている落ち着いた自信に惹きつけられたのか、ミミも大きな瞳に強い関心の色を浮かべている。
「例えば、トモヒト君が説明してくれた列車を例にとってみましょうか。 一定の速度で走っている列車があって、それを線路脇の地面に立っている人が眺めていた、と仮定しますよ」
と言いながら、青年は五線紙の裏に次のような図を描いた。
「その列車のちょうど真ん中に客が座っていて、その客が、線路脇の人の前を通過した瞬間に、タバコに火をつけたとします。 そうしますと、そのタバコの光が列車の前後の壁に到達するのは、同時でしょうか、それとも別々の時でしょうか?」
図から目を上げ、青年は穏やかな笑顔を二人に向けたが、その瞳はいたずらを胸に秘めた子供のように、キラキラと明るい輝きを帯びていた。
「そりゃもちろん同時よね。 だって、そのお客、列車の真ん中に座ってたんだもん。 ……ね、そうでしょ、トモヒト?」
青年が描いた図に視線を走らせたミミは、その視線を、まだ図をのぞき込んでいるトモヒトに向けた。
「うん、列車の中で見ればね。 光の速さが光源の動きにも観測者の動きにも無関係に一定なら、当然そうなるよね。 列車を地球として、地面を宇宙空間とすれば、これって、マイケルソンとモーレーの実験そのままだからね。 でも、待てよ……」
青年の描いた図から目を離さず、トモヒトは言葉を切って少し考え込み、
「……でもね、線路脇の人から見たら、そうは見えないはずだよ。 だってね、その人から見てもやっぱり光の速さは一定なんだから、その人には、お客のタバコの光が、同じ速さで列車の前後の壁に進んでるように見えるはずだよね?」
と、ようやく目を上げてミミと視線を合わせた。
「うーんとォ……、うん、光の速さがどんな時でも一定なら、そう見えちゃうはずよね」
「だよね?
だとすると、列車も前に進んでるわけだから、線路脇の人には、当然、後ろの壁に先に届いたように見えるはずだよ!」
「んー、なんかこんがらがっちゃった、あたし。
どういうこと、それ?」
ミミは目をパチクリさせて、トモヒトと青年をかわるがわる見た。
「つまりですね、ミミさん……」
今度は青年がミミの質問を引き取り、
「光が列車の壁に到達するには、ある程度の時間がかかるはずですから、その間に汽車も少し動いて……」
と、また次のような図を描いた。
「こんなふうに、線路脇の人から見ると、列車の前の壁はタバコの光から逃げるように動き、後ろの壁は光に向かって動いて見えるわけですね。
ですから、トモヒト君が言ったように、光の速さが前後で一定なら、後ろの壁に向かった光の方が先に届いたように見えるはずなんですよ」
「えーっ!
それって、一体どういうことです!?
同じこと見てんのに、人によって違って見えちゃうってわけですかァ……?」
混乱した表情でそう言うと、ミミはトモヒトに物問いたげな目を向けた。 トモヒトはゆっくりと肯くと、腕を組み、難しい表情で考え込みながら、
「うーん……、もし光の速さがどんな場合でも一定なら、そういうことになっちゃうよね。 これは、動いてる客を星として、線路脇の人を地球の観測者だとすれば、二重星の場合と同じで、やっぱりれっきとした観測事実だしね」
そして難しい表情をそのまま青年に向けて、
「やっぱり、これは矛盾のように思えますよ、僕には」
しかし青年は、その疑問を予期していたというよりも、むしろ期待していたらしく、にっこりしてますます瞳の輝きを増すと、ゆっくりと言葉を相手の胸に染み込ませるように言った。
「矛盾でしょうか、それが。 同じ現象が観測者の立場によって変わって見えて、なぜいけないんです? ある1つの現象が、ある人には同時に見えて、別の人には同時に見えないことがあって、なぜいけないんですか?」