玄関小説とエッセイの部屋小説コーナー時の彼方へ

【2】

「えーっ! そんな馬鹿な、そんなはずないでしょ!?」

ミミは大きな目をなお一層大きく見開いて驚いた。 単純と言ってもよいほど素直で好奇心旺盛なミミは、人の話に気持ち良く反応する天性の聞き上手で、しかも大きな瞳をクリクリさせて驚く様が、幼女じみた容貌をますますあどけなく愛らしく見せる、特異な資質を備えていた。 彼女の開けっぴろげな性格だけでなく、そんな表情にも大いに魅力を感じているトモヒトは、彼女を喜ばせたく思った時には、生来のはにかみ癖も手伝って、ロマンチックな言葉よりも、かえって驚かすような言葉を口にしてしまうのが常だった。

「うん、光を石みたいなもんだと考えると、すごく不思議だけどね。 でも、音なんかもよく似た性質を持ってるんだよ、実は。 音は空気中の気体分子の振動だから、音波が空気中を伝わる速さは、空気が動いてない限り、音源の動きに関係なくいつも一定なんだよね」
「ふーん、そう言われれば、そんな気もするわねェ……」
「気がするだけじゃなく、実際にもトモヒト君の言うとおりなんですよ、ミミさん」

ミミの豊かな表情につり込まれたのか、青年がにこやかに口を出した。 彼もまたトモヒトと同じように、ミミの素直な反応を好ましく思っているのだろう、彼女を眺める眼差しに優しく楽しげなところがある。

「ドップラー効果をご存じですか?」
「ええ、それは何とか……」と、ミミは弱々しく微笑んで、「列車の警笛の音が、近づいて来る時には高く聞こえて、遠ざかってく時には低く聞こえちゃう、あれでしょ?」
「そうです。 列車が動きながら警笛を鳴らすと、列車の前方の音波は後ろから押され、波の間隔が詰まって高い音になり、後方の音波は反対に波の間隔が間延びして、低い音になるんですよ」

青年は噛んで含めるような口調で説明を続けた。

「つまり、音波は空気中を一定の速さでしか伝わらないので、列車の動くエネルギーは、振動数を多くしたり、少なくしたりすることに使われてしまうんですね」

青年のそんな口調は、相手を子供扱いしているわけではなく、自分の好きな話題を相手にも理解して欲しいという気持ちの表れであり、それがすぐにわかるほど、青年の態度には静かな熱意が溢れていた。

「なるほど、それであんなふうに聞こえちゃうんですね」

コックリと肯いたミミは、トモヒトに視線を戻し、

「じゃ、光も音とおんなしことなのね?」

しかし、トモヒトはいたずらっぽく笑うと、

「ところが、音とちょっと違うんだよ、光は。 音の速さは、音源の動きには無関係だけど、観察者の動きには関係あるんだよ」
「観察者の動き……? どういうこと、それ?」
「つまりね、音源が警笛じゃなくて、例えば踏切の警報機だとしてね、その音の速さを列車の中から調べるとね、列車が踏切に近づいてる時には速くなって、遠ざかってる時には遅くなるんだよ」
「ふんふん、それは当然ね。 だって、音は空気に対して一定の速さで伝わるんだもん、列車から見れば一定なわけないわよね」
「そうだよね。 ところが、光はそんな場合でもやっぱり一定の速さで、光速は、光源の動きにも観察者の動きにも無関係なんだよ」
「えーっ! そんな馬鹿な、そんなはずないでしょ!?」

ミミは前と同じ言葉で驚き、同じようにあどけない顔となった。 そんな彼女を微笑で包みながら、トモヒトは説明を続けた。

「それが、不思議なことにそうらしいんだよ。 色々な実験や観測からそのことが確かめられてるんだけど、特に、マイケルソンとモーレーの実験は決定的なんだよね」
「どうやって確かめたわけ、そんなこと?」
「うーん、その実験の説明は、ちょっと複雑になっちゃうんだ。 まず歴史的なことから説明するとね、宇宙の星からやってくる光の速さが、星の動きには関係なくいつも一定だってことは、前々からわかってたんだよ」
「へェー、そう、そんなもん?」
「そう、そんなもん。 惑星の衛星や、お互いに公転してる二重星がいい例でね。 もし衛星や二重星から出た光の速さが、地球に向かう方向に動いてる時と、地球から遠ざかる方向に動いている時とで違うとすると、何しろ星はすごく遠い所にあるから、その光が地球に届く時間には、けっこうズレがあることになるよね?」
「んー、えーとォ……、つまり、あっち向きに動いてる時出した光よりも、こっち向きに動いてる時出した光の方が、早く地球に届くだろうってこと?」
「そう、そのとおり。 もしそうだとするとね、別の時に出した光が、同時に地球に届くことだってあるはずだから、1つの星がいくつにも見えちゃっても不思議じゃないよね?」
「ふうーん、そう言われれば、確かにそうねェ……」
「ところが、実際には星は1つしか見えないから、光の速さは星の動きに関係なく、いつも一定だってことになるんだよ。 これは、星を列車として、光を音とすれば、さっき話した列車の警笛の音と同じだよね」
「そうね。 じゃ、光も音とおんなしで、空気みたいな何かが振動して、それが波として伝わって来るわけね?」

素直に反応し、単純に驚くミミだが、決して単に話を聞いているだけではなく、それなりにしっかりと頭を働かせており、時としてびっくりするほど鋭い質問を放つことがある。 それがまたトモヒトには嬉しい驚きであり、ミミはまたとない話し相手、相談相手だったのだ。

「うん。 マックスウェルの電磁場理論から、光は電磁波という波の一種だってことがわかってるから、それを伝える媒体、つまり、音でいえば空気に相当するものが考えられるんだよ。 そしてその仮想的な媒体のことを、『光エーテル』っていうんだよね」
「エーテルって、あの麻酔なんかに使うエーテルのこと?」
「いいや、言葉は同じだけどぜんぜん別のもので、まだ誰も実物を発見してないんだよ。 光は真空中でもなんでも、とにかくどんなとこでも伝わるから、エーテルもこの宇宙のいたる所にあるって考えられるよね?」
「そりゃそうね。 でなきゃ、星なんか見れないもんね」
「そうだね。 それで、すごく素直に考えれば、この宇宙にはエーテルが満ちていて、その中を地球や星が動きまわってるって考えられるよね?」
「うん」
「そこでマイケルソンとモーレーは、エーテル中の地球の動き、つまり、地球から見ればエーテルの流れの速さを測定しようとしたんだよ。 さっき話したように、音の場合、観察者が空気に対して動いている時、つまり風がある時は、音の速さが方向によって違ってくるから、いろんな方向で音の速さを測って、それを比べれば、風の向きと風速を調べることができるはずだよね?」
「んー、やり方はよくわかんないけど、何となくできそうな気はするわね」
「もちろん、ちゃんとできるんだよ。 マイケルソンとモーレーは、その原理を応用して、方向によって光速が違うかどうかを、ものすごく精密に検出できる実験装置を作ったんだよ。 つまりね……」

トモヒトは手近にあった五線紙の裏に、次のような図を描いた。

マイケルソンとモーレーの実験

「……と、こういう具合にね、1つの光源から出た光を2本に分け、お互いに直角で等距離の位置に置いた反射鏡AとBで反射させて、戻って来た2本の光を、1枚の半透明な鏡で、同時に観測するようになっているんだよ。 もし、光が半透明な鏡に戻って来る時間がちょっとでもずれると、光は波だから、2本の光が干渉して縞模様ができるんだよね」
「干渉って、何?」
「干渉というのはですね」と今度は青年が説明役になり、「楽器などで、わずかに振動数の違う音を一緒に出すと、うなりが聞こえますよね? あの現象が干渉ですよ」
「ああ、バイオリンの調弦をする時の、あれね!」

ミミは大きく肯いて、トモヒトの方にいたずらっぽい視線を送ると、

「いつもトモヒトが、調弦に苦労しながらウンウンうなってる、あの声ね」
「あのねぇ……」と、トモヒトがあきれた表情で、「あれは、僕が調弦が下手だから、必死になってついうなってるだけで、そうじゃなくてさあ……」
「はっはっはっ、バイオリンの調弦は、確かにうなりを利用してますよね」

ミミのからかいにトモヒトが生真面目に応じたので、青年は愉快そうに笑いながら、

「光の干渉も原理は音と同じですが、光の場合は、うなりの代わりに縞模様になるんですよ」

ミミが肯くのを見ると、笑顔のままトモヒトを振り返った。

「途中で口をはさんでしまって、すいませんでしたね。 では……」

それを受けて、トモヒトはまたミミに顔を向け、

「それでね、地球は宇宙全体に充満してるエーテルの中を、一定の速さで動いてると考えられるから、地球から見ると、こんなふうに一定の速さのエーテルの流れがあるわけだよね」

と、図の中のエーテルの流れを表す矢印を指差した。

「それで、もしこんなエーテルの流れがあるとすると、光源を同時に出た光が反射鏡AとBで反射されて、半透明な鏡の所まで戻って来る時間は、ちょっとずれるはずなんだよ」
「え!? どうして、どうして? だって、どっちの鏡も光源から同じ距離んとこにあるんでしょ? だったら、同時に戻って来るんじゃないの?」
「それが、エーテルの流れがある時にはそうならずに、流れに垂直な方向に往復してAの鏡から戻ってきた光よりも、流れに平行な方向に往復してBの鏡から戻ってきた光の方が少し遅くなるんだよ」
「あれ? そんなもんなの? そりゃあ、Bの鏡から戻って来る光はエーテルの流れに逆らって戻って来るから、多少は遅くなるでしょうけど、行きは流れに乗ってくから、プラスマイナス・ゼロで、どっちもおんなしになるような気がするけど……」
「うん、ちょっと考えるとそんな気がするかもしれないね。 でも厳密に計算してみると、Bから戻って来る光の方が少し遅くなるんだよ。 そう……」

言葉を切ると、トモヒトはしばらく視線を宙に漂わせ、

「例えば、流れの速さが光よりも速かったとすると、Bに向かう行きはいいけど、帰りは戻って来れなくなるよね。 それに対して、Aに向かった光は、行きも帰りもすごく時間がかかるだろうけど、いつかは戻って来れるよね。 このことから、エーテルの流れが速いほど、AよりもBの方がより時間がかかることが、何となくわかるだろ?」
「ふうーん、何となく誤魔化された気がしないでもないけど、わかるような気もするわねェ」
「わかるような気がすれば、とりあえずそれでいいよ。 それで、マイケルソンとモーレーは、色々な方向で光の速度の変化を観測するために、この装置をゆっくり回転しながら実験したんだよ。 そうすれば、エーテルの流れの方向がゆっくり変化するから、それに応じて、干渉模様もゆっり変化するはずだもんね」
「ふんふん、なるほどなるほど。 で、その結果はどうだったの?」
「その結果ね、驚いたことに、どんな方向でも干渉模様はできなかったんだよ。 つまり、光の速度はあらゆる方向で一定だったんだよね!」