「というわけで、検定では定性的なことしかわからないから、次に推定をするんだよ。
推定は定量試験に相当するから、母平均がどれくらいの値かってこともわかるんだよね」
「推定か……、いよいよねェ」
とミミちゃんがしみじみといったので、僕は尋ねてみた。
「何がいよいよなんだい、ミミちゃん?」
「さあー……?」
「さあーって、あのねー……」僕はミミちゃんと伴ちゃんを見比べて、肩をすくめながら、「ミミちゃん、苦労したわけじゃなくて、生まれつき伴ちゃんと波長が合ってるんだよ、やっぱり」
「かもね。
二人の小指は赤い糸で結ばれてたのでありました、ジャーン!」
「赤い糸……?」と、伴ちゃんは自分の手足を調べ、「そんなもん、どこにもついてないよ、僕」
「よしよし、いいコ、いいコ。
それで、推定はどーやるんだい?」と、僕。
「う、うん、簡単なのはね、『点推定』って言って、標本平均をそのまま母平均だって考えちゃう方法だよ」
「たったそれだけぇ?
そりゃあ、わざわざ推定なんて名付けるのもおこがましいくらい簡単だね」
「うん、そうだね。
もうちょっと手が込んだのは、『区間推定』って言って、標本平均の上下に抵当な幅を持たせて、その間に母平均が高い確率で入っているって考える方法なんだよ。
それで、その幅のことを『信頼区間』または『信頼限界』って呼んで、高い確率のことを『信頼係数』って呼ぶんだよ」
「なるほど、ちょっとはらしくなったな。
それ、どーやって計算するんだい?」
「これは割と簡単なんだよ。
標準偏差の話をした時、正規分布では平均プラスマイナス2倍の標準偏差の間に、全データの95%が含まれてしまうってことを話したよね?」
「……」
「……」
「……二人とも、覚えてる?」
「わっはっはっは……」
「オッホッホッホ……」
「覚えてないんだね、やっぱり……」
と、伴ちゃんはがっかりした表情で、
「ま、いいけど、とにかくね、正規分布ってのはそういう性質があるんだよ。
それで、今度は標準誤差の話をした時のことだけど、母集団がどんな分布をしていても、中心極限定理によって、標本平均の分布は必ず正規分布になって、その標準偏差は、母集団の標準偏差を例数の平方根で割った値、つまり標準誤差になるってこと、話したんだよね、僕は」
「あっ、覚えてる、覚えてる!
そいつはちゃんと覚えてるよ、伴ちゃん」と、僕。
「あたしもちゃんと覚えてるわ。
ここをクリックすれば、そのあたりにジャンプできるのよね。
自信持っていーわよ、伴ちゃん」
と、ミミちゃんがまたしてもハイパーリンク機能を披露した。
「ありがと……。
そのことからね、標本平均の分布では、母平均ブラスマイナス2倍の標準誤差の間に、全標本平均の95%が含まれてしまうってことがわかるよね?」
「うんうん、わかる、わかる!」
「大丈夫、大丈夫、自信持っていきましょー!」
「も、ものすごく素直だね、二人とも」
「両親の佳作ってやつね、これは」と、ミミちゃん。
「それをゆーなら、良心の呵責だろ?」と、僕。
「カシャクでもカンシャクでもいいけど、嬉しいね、素直にわかってくれて。
だからね、ある標本平均と標準誤差があったら、その標本平均プラスマイナス2倍の標準誤差の間に、95%の確率で母平均が入っていることになるよね?」
「うんうん、わかる、わかる……と思う、多分……」と、僕。
「心細いなぁ。
ミミちゃんは?」
「大丈夫、大丈夫、自信満々!」
「わかってくれたんだね!」
「ぜーんぜん」
「わかってないの!?」
「えー、まるっきし。
自信たっぷり!」
「しょ、しょうがないなあ、もう。
……えーと、じゃ、こういうふうに……」
と言いながら、伴ちゃんは次のような図を描いた。
「……と、この図を見れば、母平均プラスマイナス2倍の標準誤差の間に、全標本平均の95%が含まれてしまうってことは、ある標本平均プラスマイナス2倍の標準誤差の間に、95%の確率で母平均が入ることと同じだってわかるよね? ……ね? ね! ねっ!!」
伴ちゃんは哀れを誘うほどひたむきな形相で、すがるように僕等を見た。
「わかった、わかった、僕が悪かった、伴ちゃんの熱意はよーくわかった!」
「ミミちゃんは?」
「ハイッ、よーっくわかりました!
……て言わなきゃ、可哀相で見てらんないわねー」
「ほんとにわかってる?」
「ほんと、ほんと、真面目にほんとーよ。
ほら見て、澄み切った湖みたいに純真なこの瞳を……」
「ゾウリムシとアオミドロが泳いでるよ、ミミちゃん」と僕は言ってやった。
「あたしの瞳は、泥沼じゃないっつーの!」
「ま、とにかく、わかってくれてありがとう。
それで、これを『95%信頼区間』って言って、信頼係数95%の信頼区間になるんだよ。
さっきの体重の例で計算してみると……」
と言って、伴ちゃんは次の式を書いた。
「……ってなって、母平均は、95%の確率で58から62の間にあることがわかるんだよね」
「なるほど。
じゃあ、95%じゃなくて90%ぐらいの時は、どーやって計算するんだい?」と、僕。
「母平均プラスマイナス何倍かの標準誤差の間に、全標本平均の何%が含まれるかってことはちゃんと決まっていて、もう計算されているから、2倍の代わりにその値を使うだけだよ。
例えば90%なら、だいたい1.7倍くらいかな」
「あ、そーか、90%なら、当然、信頼区間は狭くなるわけなんだね」
「うん。
推定ってのは、ちょうど漁師が水面に映った魚の影、つまり標本平均から、魚つまり母平均を捕まえるようなものなんだよ」
と言いながら、伴ちゃんは次のような絵を描いた。
「点推定は、銛で『エイッ!』っとひと突きの方法で、区間推定は、幅のある投網を『ヨイショッ!』っと打つ方法なんだよ。
銛は手軽に扱えるけど、魚に当たる確率は低く、投網は魚を捕まえる確率は高いけど、慣れないと扱いにくいよね」
「あらー、あたしの教育のかいがあって、伴ちゃんも随分成長したわねェ」
と、ミミちゃんが嬉しそうに口を出した。
「え?
何が?」
「その人、漁師さんだから『fisher』ってんでしょ?
なかなかー」
「え?
確かに、推定もフィッシャーが考えたんだけど、これは単なる例えだから、別に……」
「いーから、いーから!
無意識のうちに英語でダジャレゆーなんて、ダジャレ道の極意よ。
大したもんだわ」
「変なの……?
ま、それで、投網の幅が信頼区間で、幅が広いほど魚を捕まえる確率が高くなるけど、その代わり、ものすごく扱いにくくなるよね。
まあ、普通は点推定か、せいぜい95%信頼区間で十分だと思うよ」
「なるほど、検定と比べると、推定ってのは割と簡単なんだな」と、僕。
「うん、しかも得られる情報は推定の方が多いしね。
ひょっとしたら、もう見当がついているかもしれないけど、95%信頼区間に、検定で使った実質科学的に意味のある基準値μ0が入っていなければ、検定でも有意水準5%で有意になるんだよ」
「『ひょっとしたら』ってのは、僕に対する侮辱だな、伴ちゃん」
「あ、ごめん。
やっぱり見当がついていたんだね、友則」
「『絶対、見当がつかないだろうけど』って言ってもらいたいね。
僕の知的水準を甘く見てもらっちゃー困るよ、実際」
「ご、ごめん。
……ん?」
「でも伴ちゃん、どーしてそーなるわけ?
あたしもまるっきし見当つかないわ」
「そう難しいことじゃないよ。
だって、95%信頼区間に基準値が入ってないってことは、逆から見れば、母平均が基準値と違ってるってことが、95%の確率で言えるってことだよね?
これって、母平均が基準値とは違っているという対立仮説が95%信頼できる、つまり有意水準5%で有意ってことと同じ意味だよね?」
「あ、そーか。そー言われればそーねェ」
「だからね、検定は定性試験で推定は定量試験なんだから、推定をしてしまえば、検定は必要ないってことなんだよ」
「つまり、pH計で計ってみてpH2ぐらいだったら、リトマス試験紙で調べても必ず赤くなるはずだから、リトマス試験紙は不必要ってわけね」
「そのとおり、そのとおり。
すごいよミミちゃん、素晴らしいよ!」
「ほんと、ほんと。
すごいなー、ミミちゃん、すばらしーなー」と、僕。
「友則君に誉められると、なーんか皮肉に聞こえちゃうのよねー」
「そりゃー誤解だ、そりゃー偏見だよ、ミミちゃんの。
恋愛感情で人を差別してはいけない、性差別もはなはだしい!」
「恋愛感情つーよりも、人間性の問題ね。
純真さの違いよね」
「人間性や純真さは別にしても、検定はほとんど無意味だって僕がさっき言ったのは、このことも理由のひとつなんだよ。
推定の方が計算が簡単で、しかも得られる情報も多いんだから、本当は推定だけで十分なんだよ。
だから、やっぱり、それはミミちゃんの誤解だと思うよ」
「……たまーにだけど、まだ、どーしても伴ちゃんの話についていけない時があるのよねー、あたしも。
伴ちゃんについて、まだまだ理解が足らないのね」
「そ、そんなことないよ。
ミミちゃんや友則って、初めて会った時から、ああ、この人とは気が合って、わかり合えるだろうなって思ったし、それで、やっぱりそのとおりだったよ」
「伴ちゃんも、ミミちゃんに一目惚れだったもんなー」
と僕が指摘すると、伴ちゃんは、
「そ、そんなんじゃないよ!」
と慌てて言ってから、顔を赤らめ、小声で弁解するように付け加えた。
「た、ただ、このコと友達になれたらいいだろうなって、そう思っただけだよ」
「そーゆーのを一目惚れってゆーのさ、世間一般では」
「あのー、あたし、よく聞こえなかったんだけど、もう一度、おっきな声ではっきり言ってくんない、伴ちゃん?」
と、ミミちゃんがわざとらしく尋ねた。
「えーと、つまりね、えーと、結局、統計学ってのは、データを要約することが目的なんだから、定性的な検定よりも、定量的な推定の方が重要なんだよ」
「そんなことじゃなくって、今言ってたことよ、友則君とー」
「た、ただね、統計学は単にデータを数学的に要約するだけだから、求められた要約値が、実質科学的に本当に意味の有るものなのかどうかは、数学者じゃなくて、実験をやった科学者が、その分野の理論や知識に基づいて、しっかりと評価すべきなんだよね」
「どーしても、話そらすつもりね?
ま、でもいーもん、もーわかっちゃったんだもんね」
「わかってくれた?
じゃあ、ちょっと説明してみてよ、統計学とは?」
「統計学じゃなくって、伴ちゃんの気持ちのことよ、あたしが言ってるのは」
「ぼ、僕の気持ちなんてどうだっていいからね、と、とにかく、統計学とは……」
「あら、どーだってよかないわよ。
あたしにとっては、ものすごーっく重要なことなんだからァ!」
「わ、わかった、わかりました、わかりましたから、今は統計学について……」
「何がわかったのよ!
だいたい伴ちゃん、あたしが確かめよーとすると、いっつもそーやって……」
「は、はい、ごめんなさい、よーくわかってます。
……ごめんね、僕の気持ち、ミミちゃん、よくわかってくれてると思うから、つい……」
「あら、そんな……、いーのよ、別に。
別に、怒ってるわけじゃないんだから……」ミミちゃん、急にしおらしく甘えるような口調になって、「伴ちゃんったら、いっつも恥ずかしがって、なかなかはっきり言ってくんないんだもん」
「ウォーッホン!
独り者を前にして、二人でそーやってイチャついてりゃあ、楽しいだろーなぁー」
と、たまりかねた僕が口を出すと、ミミちゃんは大飯食らいの居候でも見るような目つきで僕を見て、
「あら、友則君、まだいたの?」
「いましたよ、残念ながら。
統計学の話が終わらんから、気を利かせて帰ろーにも、なかなか帰れないのさ」
「あ、そう。じゃ、伴ちゃん、早いとこ統計学の話、終わらせちゃってよ。
さあー」
「ググッ、腹立つなー、もぉー!」
「冗談よ、冗談!
友則君、あたし達のこと、最初っから全部知ってるから、つい甘えて、思ったことそのまま言っちゃうのよ。
決して冗談じゃないのよ、本気なのよね。
……あら?
何か変ねェ……?」
「グギゴゲッ! ぢぐじょ〜、今に見ておれーっ!
僕だって、メチャンコ可愛い彼女見つけて、ほんでもって、イチャついて、見せびらかしてやるからなーっ!!」
「そーそー、その意気、その意気!
絶望は愚か者の結論なり、たとえもンのすごーーっく小さな可能性でも、それに向かって努力するのが男よ!
若者よ!!」
「どーでもいーけど、小さな可能性ってのを、えらく強調してくれるね」
「なんの、なんの。
負けるとわかってる戦いに、あえて出かけて行く男の後ろ姿って美しーわ、しびれちゃうわよォ。
キャーッ、カッコイーッ!!」
「あのねぇ……」
「ま、というわけで、一応、これで統計学の概論は終わりだけど、レポートにするには、もうちょっと内容を膨らませる必要があると思うから、続いて今度は各論を……」
と伴ちゃんが言いかけたのを、ミミちゃんが牛の丸焼きでも食べ尽くしたような顔で遮った。
「あ、もー駄目、もー限界!
もー入んないわ、ごちそーさまーっ!」
「同感、同感!
伴ちゃん、ミミちゃんもあー言ってることだし、各論はまたにしよーぜ」
「う、うん、そりゃあいいけど……」
「そーしましょ、そーしましょ!
頭ん中に統計学がメイッパイ詰まってて、鼻血出そーなの、あたし」
「ほんと?
頭を突っつくと、カラカラと音がしそうだけど……」
と伴ちゃんがミミちゃんの頭を指で突つくと、彼女は必死に耳を押えながら、
「キャッ! 刺激しないでよォ、耳から統計学がこぼれちゃうじゃない!」
「ムチャクチャ容量が小さいね。そんなことで、これから大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫!
こんなこと、一晩寝ればすーぐ忘れちゃうわよ、心配いらないって!」
「……ま、いいけどね、別に……」