中川さんが約束したとおり、伴ちゃんは夕食の少し前に部屋に戻って来た。 尋ねたい事が山ほどあるってのに、夕食の後で中川さんから説明があるから、それまでは口止めされているということで、伴ちゃんは何も話そうとせず、ただ感心したように、
「中川さんってね、ほんと、ものすごく頭いいんだよ。 何から何まで、みんなわかってんだもんね、びっくりしちゃったよ」
と、ポツリと言っただけだった。
二日ぶりで警察から解放されたせいか、夕食は久しぶりに和やかな雰囲気だった。 共通の敵(警察のことだよ)があると、あまり気が合わない人とでも同志のような親しみがわいてくるもんらしく、笹岡家の人達も僕や伴ちゃんに愛想良く話しかけてきたりした。
食事が済み、みんながコーヒーを飲んでいる時、耕平氏がおもむろに立ち上がり、改まった口調で話を切り出した。
「えー、今回の事件で、皆様方には大変な御迷惑をおかけしてしまって、本当にお詫びの申しようもございません。 しかし幸いなことに、ようやくのこと、盗まれた浮世絵を発見することができましたので、ここで報告かたがた、御協力いただいた皆様方にお礼を申し上げたいと存じます」
耕平氏の言葉が終わらないうちから、その場にいた人達の口から驚きの声が上がった。 僕はある程度予期していたことなので、それほど驚きはしなかったけど、みんながあんなに一生懸命考えたのにどうしても解けなかった謎が、いよいよ解明されるかと思うと、やっぱり興奮せずにはいられなかった。
「ともあれ、まずは無事に戻りました浮世絵を、もう一度、皆様に御覧にいれましょう。 ……じゃあ、中川君頼むよ」
中川さんはゆっくりと立ち上がると、椅子の横に置いてあったアタッシュケースをテーブルの上に置き、中からまぎれもないあの盗まれた浮世絵を取り出して、みんなに手渡していった。 感嘆の声や興奮したざわめきとともに、浮世絵がみんなの手から手へ渡っていくのを、中川さんは楽しそうな表情で眺めている。
説明を求めるみんなの視線にうながされて、耕平氏は、
「えー、この浮世絵を発見したのはその中川君でして、後は彼の説明をお聞き下さい」
とつぶやくように言うと、椅子に座り込んで口を堅く閉ざしてしまった。 そこで自然とみんなの視線が中川さんに集まり、充分に集中したところで、中川さんはようやく口を開いた。
「実を申しますと、この浮世絵を発見できましたのは全く幸運のたまものでして、あまり偉そうに威張れるようなものでもないのです」
「一体全体、どこで見つけたのかね、これを?」
笹岡氏が、今初めて見るような目で中川さんを見つめて尋ねた。
「ここから海岸沿いに北に500メートルほど行きますと、小さな海水浴場があります。
そこに壊れかけた古い海小屋があるのですが、その中に古新聞に包まれて隠されていたのです」
「500メートルも離れた海小屋に!?
でも、一体どうして……?」
今度は息子の正氏が、まだ信じられないように浮世絵を見ながら言った。
「皆様も御存じのように、この事件では、一見、不可能と思われるような状況で、40枚近い浮世絵が消え失せてしまっていました」
中川さんはここでひと呼吸置くと、みんなの顔をグルリと見回した。
「盗難があった一昨日は、昼の間中、激しい雨が降り続け、夜になってやんだため、別荘の周囲の地面はぬかるんでいて、足跡などをつけずにこの建物に出入りすることは不可能な状態だったのです。
そして朝になって盗難が発見された時、この建物の周囲の地面には、それこそネコの子いっぴき歩いた跡もなく、当然のことながら、盗まれた浮世絵もそれを盗んだ犯人も、まだこの建物の中にいるはずだと思われました」
「そんなことはとっくの昔にわかっとるんだ。
それより、早く絵を発見できた理由と、犯人の名前を言いたまえっ!」
と、笹岡氏が業を煮やしたように怒鳴った。
「まあまあ、笹岡さん、まだ事情を良く御存じでない方も、中にはいらっしゃるかもしれませんので、もうしばらく御辛抱願います。 何しろ順序良く話していきませんと、私もうまく説明できかねますから……」
そう言った中川さんの態度は、今までのように恐縮してなだめすかすような感じのものではなく、わざと丁重にして相手の反応を楽しんでいるようなところがあった。 笹岡氏は不満そうな表情だったけど、どうすることもできないので、口の中でブツブツ文句をつぶやきながらも、そのまま引き下がった。
「しかし、藤島刑事以下、優秀な刑事さんと警官達の必死の捜査にもかかわらず、とうとう浮世絵も、それを盗んだ犯人も発見することはできなかったのです」
「やっぱり思ったとおり、何か道具を使って窓から絵を遠くに飛ばしたんだな!
やっぱり、そうじゃないかと思ってたんだけどなあ……」
という耕一さんの言葉に、中川さんは残念そうに首を振った。
「ところがそうじゃなかったんですよ、耕一さん。
家探しのプロが二日もかけて徹底的に捜したんですから、この別荘とこの周辺にないことはほぼ確実です。
したがって、やはり何らかの方法でこの別荘から持ち出した、と見る以外ないことは確かなんですが」
「じゃあ、犯人はどんな方法を使ったんだ?
僕には、それ以外に考えつかないけど……」
「何も特別な方法は使わなかったんです。
ただ単に、極めて普通の方法で盗んでいっただけなんですよ、犯人は」
この言葉に、耕一さんだけじゃなく、僕を含めてほとんど全員の口から困惑の声が上がった。 中川さんはみんなを愉快そうに眺め、今にも笑いだしそうに口元をゆるめている。 そんな彼の様子は本当に生き生きとしていて、秘書の仕事をしている時とはまるで別人の観がある。 なるほど伴ちゃんの言うとおり、彼は刑事かなんかの方がよっぽど向いているようだ。
「だ、だって、それじゃあ、足跡が……」
「足跡がついてしまう、とおっしゃるのでしょう?
そのとおり、ちゃんと足跡はついていたのです、最初は」
「最初は……!?」
「じゃあ、誰かが後から足跡を消してしまったというわけか……!」
「だけど、それじゃあ、今度は地面に消した跡が残るはずだぜ」
「地面に砂をまいても、すぐわかるはずよね」
耕一さんや笹岡兄妹の口から次々に飛び出す言葉を手で制して、中川さんはみんなの胸に染み込ませるようにゆっくりと言った。
「みなさんの言われるとおり、後から何者かが犯人の足跡を消してしまったのです、しかも何の跡も残さずに」
「そんな馬鹿な!!
そんなこと、できっこないぜ!」
「それが、その何者かにはちゃんとできたんですよ。
なぜなら、そいつは雨という名前でしたからね」
「ええーっ、雨!?」
と、みんなが一斉に叫んだ。
「そうなんです。
私は、それしかないと思いついて、気象台に問い合わせてみたんです。
すると案の定、一昨日の夜は、午前2時頃から再び激しい雨が降り出し、2時間ほど降り続いたというんですよ」
「そうか、それで犯人の足跡が消えてしまったんだ……!」
「それじゃあ、いくら捜してもわからないはずだわ」
「とすると、犯人は2時より前にここに侵入したわけだな」
などと口々に飛びかう言葉をまたしても手で制し、中川さんは説明を続けた。
「もう、皆様おわかりですね。
そのとおり、犯人は午前2時以前に書斎の窓から侵入し、絵を盗むと、また窓から逃げたのです。
そして、その後また雨が降って、犯人の足跡を消し去ってしまったというわけです」
「なーんだ、わかってみれば、そう大したことないんだな、こんなこと」
と馬鹿らしそうに言ったのは正氏だった。ところが、
「コロンブスの卵よ、お兄さん。 その大したことないことにまるっきり気づかなかったのは、どこのどなたなんでしょうねえ?」
と、裕美さんに皮肉な調子でやりこめられ、
「そ、それは……。 だけど、みんなだって気づかなかったじゃないか」
と文句を言い返したものの、その声には力がなかった。
「だーれも気づかなかったことに気づいたんだから、大したことじゃないの、やっぱり」
僕の最も苦手なタイプの裕美さんなんだけど、その潔さに驚いて、この時ばかりは彼女をちょっぴり見直してしまった。
「そこで私は、捜査範囲を別荘周辺からもっと広げて、このあたり四方を調査してみたのです。 と言いますのも、幹線道路からこの別荘への道は非常に見晴らしの良い所を通っていますから、真夜中とはいえ、これほど大量の絵をかかえて逃げるには危険が多過ぎるからです」
これは中川さんの言うとおりで、この別荘へ来る道すがら周囲を眺めた時、ところどころにポツリ、ポツリと、別荘やら旅館やらが点在しているだけで、ずっと遠くまで見渡すことができたことを覚えている。
「だから犯人は、このあたりでどこか人目につかない所に一旦絵を隠しておいて、後でゆっくりと取りに来るつもりではないか、と考えたのです。 まあ、これはそう可能性の高い推理ではなかったのですが、幸運なことに、先ほども言いましたように、近くの海小屋で無事に絵を発見することができたというわけです」
中川さんの説明に納得がいったのか、誰もが何度も大きくうなずいていた。 でも、もちろん僕は納得なんかしていなかった。 絶対そんなはずはないんだ、僕だけはちゃんと知っているんだ!!
「そこで、実は皆様にお願いしたいことがあるのです。 こうして浮世絵も無事戻ったことですし、犯人に関する手掛りは残念ながら全くありませんし、これ以上警察を騒がせて、皆様に余計な迷惑がかかってもいけませんので、この盗難事件は最初からなかったことにしていただきたいのです」
ここで、中川さんが言葉を切って耕平氏に顔を向けると、耕平氏はむっつりと押し黙ったまま、わずかにコクリとうなずいた。
「これは持田社長のお考えで、警察にも事情を説明して、そのように取り計らっていただくつもりですから、どうか皆様も、持田社長に免じて、何とぞ御協力下さいますよう御願い致します」
こう言って、中川さんは腰を折って深々と頭を下げた。 もちろん、誰にも異存があろうはずはなく、自然に誰からともなく大きな拍手がわき起こった。 それは協力を約束する拍手であると同時に、中川さんの見事な名探偵ぶりに対する賞賛の拍手でもあったんだ。