玄関小説とエッセイの部屋エッセイコーナー行雲流水

【第9章 帰国】

部落でしばらく待っていると、やがて数台のアメリカ軍のトラックがやって来ました。 オヤジさん達はそれに乗せられ、ケソンの町の中心部へと運ばれ、そこで一泊してからソウル(当時の日本名は京城)へ運ばれ、そこの東本願寺に収容されました。 そこで数日間休養を取りながら、アメリカ軍によって健康診断、身元調査、検疫、帰国者名簿の作成など、日本に引き揚げるための色々な作業が行われました。

それが済むとまたトラックに乗せられて、ソウルの西にあるインチョン(仁川)の港まで運ばれ、そこで日本の引き揚げ船(日本がアメリカ軍から提供されていたリバティ型貨物船)に乗せられ、6月中旬、日本を目指してインチョンの港から出航しました。 引き揚げ船がインチョンの港を出航する時、オヤジさん達は甲板に出て次第に遠ざかって行く朝鮮半島を眺めていましたが、オヤジさんとお袋さんをはじめほとんどの人は、何とも言いようのない複雑な感慨で涙が溢れて止まらなかったそうです。

引き揚げ船の中ではみんなが日本の状況についてあれこれと話し合い、親や兄弟の安否を気遣っていました。 敗戦の直前から日本と満州との間の個人的な文通はできなくなっていましたし、それ以後の連絡も途絶えていましたので、オヤジさん達には日本の状況は全くわからなかったのです。 またオヤジさんのような関東軍の元軍属や軍人達は、無敵と言われた関東軍がほとんど戦わずしてソ連軍に降伏してしまったことを恥じており、日本に帰ると皆から白い目で見られるのではないかと心配していました。

そういった色々な不安や心配を乗せて、引き揚げ船は1946年(昭和21年)6月21日の朝、北九州の博多港に到着しました。 オヤジさん達が甲板に出てみると、埠頭の正面の建物の屋根に「引き揚げ者の皆様、長い間大変ご苦労様でした」と書いた大きな幕が貼ってあり、埠頭ではメガホンを持った大勢の人達がオヤジさん達に向かって、「皆さん、お帰りなさい!」とか、「長い間ご苦労様でした!」などと叫んでいます。 そのあまりにも予想外の歓迎ぶりに、オヤジさん達は思わず顔を見合わせてしばらく呆然としていましたが、やがて暖かい祖国の人達の情けが身にしみて、その人達に向かって誰もが泣きながら夢中になって手を振り続けたのです。

しばらくすると、上陸の準備作業が始まりました。 まず引き揚げ者全員が甲板に並び、衛生衣を着た係員がひとりずつ名前を呼んでいきます。 呼ばれた者がその係員の前に行って大きな声で出身地と年齢を言うと、係員はその人を見ながら手にした名簿にチェックし、手の甲に「済」というスタンプを押して、「これは上陸し終わるまで消さないように」と注意しました。 人員点呼が済むと、次は所持品の検査でした。 各自が自分の所持品を甲板に並べて待っていると、係員がやってきてそれに「済」のスタンプを押していきます。 オヤジさん達一家の所持品は破れたオムツが2、3枚と、でこぼこになったハンゴウが1個だけでしたので、係員は苦笑いしながら1枚のオムツの片隅に「済」のスタンプを押していきました。

その次は身体検査で、問診と聴診と検便が行われました。 検便は細いガラスの棒を直接肛門に差し込む、乱暴な、しかし手っ取り早い方法でした。 この身体検査は、男性は上半身裸になって甲板の上にずらりと並び、全くのオープンで行われましたが、女性は、一応、天幕の中にひとりずつ入って行われました。 身体検査が済むと、最後に予防接種のような注射を両腕と両胸に1本ずつ、合計4本うたれて上陸準備は終了しました。

それから船内で長い間待たされた後、やっと上陸が始まり、オヤジさん達は一列縦隊になってタラップを降りて行きました。 タラップを降りると、強い消毒薬の匂いがする敷物が細長く敷いてあり、その上をしばらく歩いて行くと大きな倉庫へと入って行きます。 その倉庫の入り口には噴霧器を持った数人の係員がいて、オヤジさん達は頭から白い粉(後で尋ねたところ、ダニ退治用のDDTだったそうです)を吹きかけられました。 そして全身真っ白になって倉庫の奥に入って行くと、あちこちに都道府県名を書いた大きな旗が立っていて、その下で係員が「何々県の方はこちらに来てください!」と叫んでいます。 オヤジさんとお袋さんは愛知県の旗のところへ行き、そのまま係員の案内で県の引き揚げ宿舎(丸太で作った即席の小屋)に連れて行かれました。

その時はどさくさに紛れてわかりませんでしたが、これが、満州以来、生死と苦楽を共にしてきた忘れがたい大勢の仲間達との別れでした。 一言の言葉を交わす間もない、実にあっけない別れでした。

県の宿舎で一泊した後、衣類(下着とズボンと地下足袋)、日用品(手拭い、石鹸、チリ紙)、引き揚げ証明書、現金600円(オヤジさんとお袋さん各々ひとり300円ずつ、現在のお金で60万円程度)などを支給され、引き揚げ者専用の貨物列車に詰め込まれて博多駅を出発し、翌日、豊橋駅に着きました。 こうして長い艱難辛苦の末、オヤジさんとお袋さんはようやく懐かしい故郷に帰り着くことができたのです。 しかし豊橋駅に降り立ったオヤジさんとお袋さんは、帰るべき我が家も無く、復帰すべき職も無く、数枚の破れたオムツとでこぼこになったハンゴウ1個、そして600円の現金だけが全財産という、先の見込みも将来の希望も無い、乳飲み子を抱えた浮浪者夫婦でした。

そしてそれが、政府の言葉を真に受けて、”世の為人の為に”新天地・満州に夢を託した、オヤジさんとお袋さんが得たものの全てだったのです。

行雲流水 第1部 完


2ヶ月間にわたって連載してきました「行雲流水」が、ようやく一段落しました。 自分の両親が歩んだ波乱の足跡をたどることは、僕にとって非常に楽しく、また同時につらい作業でしたが、書いているうちにどんどんと深入りし、予想外に長いものになってしまいました。

故郷に戻ってから、オヤジさんは市の所有地に勝手に掘っ立て小屋を建て、かつぎ屋と闇屋をやりながら、毎日が生き延びるための戦いという日々を数年すごした後、豊橋鉄道の車庫に雑役係として就職します。 こうしてやっと人並みの極貧生活(^^;)ができるようになってから、僕が生まれました。 その間にもその後にも色々と面白いエピソードがあり、気が向いたら続きを書いてみようかな……などと思っていますが、とりあえず今回は第1部ということで、これで終了したいと思います。

長い間の御愛読、本当にありがとうございました。m(__)m

1996年4月24日 荻須友則 こと 杉本典夫