こうしてオヤジさんと合流したことにより、お袋さんは精神的にも肉体的にも随分楽になりましたが、オヤジさんの方は、家族ばかりか大勢の仲間の面倒まで見なければならないという責任を背負いこむことになりました。 何しろ女と子供と老人ばかりの集団で、大人の男といったらそれまでその集団を率いてきた数名の軍人だけでしたし、オヤジさんは一応みんなと顔見知りでしかも元酒保主任でしたから、自然とその集団のリーダー的役割を担うことになったのです。 もっともオヤジさんはけっこう鷹揚な性格で、人の上に立つことが嫌いではありませんでしたので、自ら進んでリーダーの役目を引き受けたところもあったようです。
さてオヤジさんが収容所に来てから一週間ほどして、宣川小学校に収容されている避難民の一部がピョンヤンに移されることになりました。 その頃はまだ満州からの日本人避難民が続々と朝鮮半島に南下して来ていて、国境に近いそのソンチョンの収容所にもそれらの人達が次々に収容されていましたので、だんだんと収容しきれなくなっていたのです。 オヤジさん達の集団も移動させられることになり、またしても貨車に詰め込まれピョンヤンの賑町まで連れていかれました。
賑町は日本の敗戦時までは遊郭だった町で、敷島桜、入船桜、明月桜などといった元女郎屋が数十件軒を連ねており、日本の避難民はそれらの家々に分散して収容されました。 そこに収容された人達は、以後「避難民団」という名称で呼ばれることになりますが、この頃には衣服はボロボロで、髪はボサボサ、顔は真っ黒く汚れて、目だけがキョロキョロと空ろに光り、誰もが栄養失調でやせこけていましたから、まさしく避難民の名にふさわしく、オヤジさんは「避難民団」とはうまく名付けたもんだと苦笑いしたそうです。
避難民団が収容された建物は元女郎屋でしたから、大きい部屋でも6畳程度で、そこへ畳1枚に対して数名の人間が無理矢理詰め込まれました。 オヤジさん達が入れられた部屋も6畳部屋でしたが、女と子供が多かったせいか、そこに何と35人もの人間が詰め込まれました。 このため全員が部屋に入るとほとんど身動きできない状態で、みんなが部屋の中で寝ることは当然無理でしたし、部屋の中でも横になって寝ることはほとんどできない状態でした。 このためいつも何人もの人間が廊下で折り重なって寝ていて、夜中にトイレに行こうものなら二度と部屋に戻ることはできず、廊下で寝ている人間の塊の一番端にもぐりこむはめになったそうです。
食料は初めのうちこそ1日に1人当たり米2合程度と、日本人から押収した缶詰などの食料品が支給されましたが、そのうちにどんどんと減っていき、数ヶ月後にはコーリャン(唐もろこし)がほんの少しと、塩が少々しか支給されなくなってしまいました。 このため、ネズミなどの小動物や昆虫をはじめ付近に生えている雑草を片っ端から取って食べたので、やがて賑町付近にはネズミも昆虫もいなくなり、雑草もほとんど無くなってしまったそうです。 しかし雑草の中には消化できないものも多く、みんなが毎日のように青い下痢便をし、それが原因で衰弱死する人が後を絶ちませんでした。 こういった飢餓状態での死は、本当の餓死よりも、消化できない草や木などを食べて下痢し、それによって衰弱死する方がむしろ多いのです。
そして最初は6畳に35人も入れられていたオヤジさん達の部屋も、徐々に人が死んでいき、そのうちに全員が部屋の中に入れるようになったそうです。 こんな状態ですから、目の前で座って居眠りしていると思っていた人が、ふと気がつくとすでに餓死していたなどということも日常茶飯事となり、死に対する感覚が麻痺してしまい、最後には何とも思わなくなってしまったといいます。
賑町に移ってしばらくすると、避難民団はソ連軍と朝鮮治安隊によって使役に使われるようになりました。 使役には病気や高齢で動けない人を除いた男性全員と、若くて比較的元気な女性が狩り出され、男性は土木工事や建築工事の下働き、荷物の運搬、建物や道路の清掃などといった作業に、女性は炊事、洗濯、掃除などといった作業に従事させられました。 しかしこの使役に出ますと昼食(ソ連軍の場合は黒パン、朝鮮治安隊の場合は主として米飯)にありつけましたので、動ける人はみんな率先して出たそうです。
もちろんオヤジさんも率先して使役に出て、昼食をこっそりと持ち帰り、お袋さんや兄貴に食べさせました。 このため、体力のない子供と老人が次々と餓死していく中で、兄貴だけはかろうじて生きながらえることができたのです。 使役で手に入れる食料以外にも、オヤジさんはこっそりと収容所を抜け出し、付近の畑や野山から食料を調達してきてはそれを家族や仲間に分け与えました。 中国人に化けることのできたオヤジさんにとって、それは最初のうちこそたやすいことでしたが、そのうちに栄養失調でやせこけてきたので、さすがに化けることが難しくなり、次第に使役で手に入れる食料だけが頼みの綱となっていきました。
ところがいつの時代でも、またどこでも起こることですが、若い女性が使役に出ますと、使役先でいたずらされたり強姦されたりすることも希ではなく、中にはいたずらの方が目的のような使役もあったといいます。 使役に出て数日たって帰ってくると、すでに気が狂っていたり、帰ってすぐに自殺したり、とうとう帰ってこない人までいたりしたそうです。
また巡察と称して時々数名のソ連兵がやってきて、若い女性にいたずらをしていくこともありました。 さらにソ連兵の中でも特にタチの悪い者が、集団で強盗にやって来ることまでありました。 夜中にいきなり部屋に入ってくると、自動小銃を天井に向けて威嚇射撃をし、大きな風呂敷のようなものを床に広げてそこに金目の物や食料を出せと脅すのです。 武装解除の時にほとんどの私有物を没収されていましたので、盗られる物はほとんどないのですが、中には私有物をこっそり隠し持っていたり、使役先で手に入れたりした人もいることはいました。 ソ連兵の強盗団はそれらの物を目ざとく見つけてかっさらい、さらに若い女性も連れ去って行くのです。
このような危険から身を守るために、若い女性は頭を丸刈りにし、顔を墨や泥でわざと汚してできるだけ薄汚い男の服を着るようにしました。 また子供を抱いている女性は比較的安全でしたので、ソ連兵が来そうだという噂が広がると、他の部屋から子供を借りてきて抱いている人もいたそうです。 お袋さんは兄貴を抱いていましたし、幸か不幸かもともと器量が悪かったので(^^;)、ソ連兵に目をつけられることもなく何とか身を守り通すことができました。
賑町に移ってから数ヶ月後、突然、避難民団の18才から40才までの病気で動けない人を除く男子全員が集められ、どこへともなく連れて行かれました。 後からわかったことですが、この時集められた人達はシベリアや満州奥地の収容所に連れて行かれ、そこで強制労働に従事させられたのです。 これはいわゆる「男狩り」と呼ばれたもので、その後も数回にわたって行われ、年齢の上限も45才までに引き上げられ、少しでも働けそうな男性はほとんど連れて行かれました。
オヤジさんももちろんこの男狩りにあい、ソ連軍に連れて行かれましたが、収容所の家族と仲間達のことがどうしても気にかかり、連れて行かれる途中でこっそりと脱走してしまいました。 国境警備隊でスパイまがいの活動をしていた頃、色々な修羅場をくぐりぬけてきた経験を持つオヤジさんはそういった行動に慣れていましたし、オヤジさん達を護送していたソ連兵はかなりいい加減な連中だったので、案外簡単に脱走できたそうです。 もっとも当時の状況では、日本人が脱走して単独行動をとる方がむしろ危険でしたから、ソ連兵もそれほど警戒していなかったのでしょう。
脱走したオヤジさんは例によって中国人に化け、しばらくの間は賑町の収容所に近づかず、ほとぼりが冷めた頃こっそりと収容所に戻りました。 お袋さんをはじめ仲間の人達はオヤジさんが戻ってきたことに少々びっくりしましたが、宣川小学校に収容されていた時もいきなり収容所に入って来てみんなを驚かせたオヤジさんのことですから、「またか!」と思われた程度だったそうです。 この後、同じような男狩りが数回ありましたが、そのたびにオヤジさんは脱走し、いつの間にか収容所に戻って来ました。
男狩りでシベリアなどの収容所に送られた人達は、厳しい自然環境の中で長い間強制労働に従事させられ、数年後、ようやく解放されて日本に引き揚げることになります。 その中にはオヤジさんの戦友だった人達もいました。 その戦友達と苦労を共にできなかったことと、ソ連軍が満州に侵入して来た時に、命令とはいえ何の抵抗もせず真っ先に逃げ出す格好となってしまったことは、ずっと後々までオヤジさんの心の奥底に負い目となって残ることになります。
こんな極限状態にもかかわらず、死人の肉を食べたり共食いしたりということが全く起こらず、遺体はできるだけ丁重に埋葬したそうです。 このことは日本人の人肉嗜好に対する嫌悪感の強さというか、遺体に対する尊厳の念が非常に強いものであることをよく表わしているように思います。
子供のひいき目かもしれませんが、ソ連軍参戦時にオヤジさんが朝鮮半島に避難したのは軍の命令に従っただけでしたし、収容所に戻ってきたことは、男手のない家族と収容所の仲間達にとって少なからず役立ったように思います。 後年、オヤジさんも、あの状況下では仕方のない選択だったと理屈では納得していたようですが、何かのおりにその話題が出ると、悔恨の念で顔を曇らすのが常でした。