玄関小説とエッセイの部屋エッセイコーナー行雲流水

【第5章 逃避行】

話が少々先走りました、また瀋陽に戻ってお袋さん達の後を追うことにしましょう。 敗戦放送の後、お袋さん達の集団は他の多くの集団と同様に、最初の目的地である朝鮮半島を目指して瀋陽を出発しました。 その逃避行は開拓団の逃避行と同じように、四面楚歌の中を餓えと疲労と戦いながら歩きつづける辛く厳しいものでしたが、途中で貨物列車に便乗できた時もあったので、幸い病人以外の落伍者は出ませんでした。 途中、お袋さんも乳が出なくなりましたが、野菜のしぼり汁や雨水で兄貴の餓えを何とかしのいだそうです。

数日後、お袋さん達の集団は朝鮮半島に入り、国境から少し南下したところにあるソンチョン(宣川)という町に着きます。 このソンチョンには学校などの比較的大きな建物がありましたので、一時的に日本人避難民の収容場所となっていました。 そしてお袋さん達の集団は、他のいくつかの集団と一緒に宣川小学校の講堂に収容されました。

ところがそこに収容されて間もなく、近いうちにソ連軍が北朝鮮に進駐して来て、男は1人残らず殺され、女は略奪されるという噂が広がり始めました。 そのような噂は逃避行中にもあり、実際に総自決した集団があるという話も耳にしていましたから、お袋さん達はその噂に震え上がり、どうやったら楽に死ねるだろうかとそんな話ばかりしていたそうです。 戦時中は「鬼畜米英」などと言って、政府やマスコミが連合国側の人間を残虐非道な怪物のように宣伝していて、純潔を守るために女性が自殺する行為を美化していましたので、そんな話が出るのも無理はありません。

そして噂が広がってからしばらくたったある夜、集団を率いていた軍人がお袋さん達を集め、

「あと何日かするとソ連軍がここに進駐して来る。 皆さんは関東軍軍属の家族と女子軍属だから、関東軍の名を辱めないよう、我々軍人ともどもお国のためにりっぱに自決して欲しい」

という話を始めたのです。 それを聞いたお袋さん達は、いよいよ来るべきものが来たと驚きましたが、無闇に取り乱すことは恥だと教育されていましたし、逆らっても無理矢理自決させられるだけだとわかっていましたから、恐怖と無念さを押さえて無言で命令に従うしかありませんでした。

その後、軍人がみんなに手榴弾を配って使い方を説明してくれました。 できればみんなで一緒に自決したいが、何かの事情でバラバラになってしまった時にはそれを使って自決するようにとのことです。 手榴弾をもらった時はさすがにみんな顔面蒼白となり、お袋さんも恐ろしさで歯がガチガチと鳴って奥歯が合わなかったといいます。

話が終わった後、最後にお汁粉を思う存分食べようと、どこからか調達してきた貴重品の砂糖と小豆の粉で、大きな鍋いっぱいにおしるこを作ることになりました。 このあたり、いかにも女と子供と老人ばかりの集団らしいところですが、子供の頃に聞いた一家心中の話──心中の前に当時の庶民の憧れの果物であったメロンを子供に食べさせたという話──などに通じる、悲哀のこもった話です。 その時食べたお汁粉は、砂糖も小豆の粉も少ないためやたらと薄くて味気ないものでしたし、恐ろしさでじっくり味わうどころではなかったのですが、お袋さんにとっては今だに忘れられないもののひとつだということです。

その後、数日間は何事もなくすぎ、お袋さん達が不思議に思い始めた頃、また軍人達が全員を集めました。 そして驚いたことに、大勢のソ連兵と朝鮮兵(後で朝鮮赤衛軍の兵士とわかりました)が講堂に入ってきたのです。 それからソ連兵と朝鮮兵が銃を構える中、軍人達は自分の武器を彼等の前に出し、お袋さん達にも手榴弾を出すよう命じました。 いわゆる武装解除です。

日本の敗戦後、北朝鮮では朝鮮赤衛軍によって治安が維持されていましたが、何しろ相当な混乱でしたので、朝鮮側の希望によって解散を延期した残留日本軍も警備に当たっていました。 お袋さん達を率いていた軍人達も、この残留日本軍の一種と言えます。 しかしソ連軍とアメリカ軍が朝鮮半島に進駐してくると、それらの残留日本軍の武装解除を行い、捕虜としてソ連軍あるいはアメリカ軍の指揮下に入れたのです。 お袋さん達もそれ以後はソ連軍の指揮下に入り、宣川小学校の講堂はそのまま日本人難民収容所となりました。 集団には数名の軍人と大勢の女子軍属が含まれていましたから、建前としては捕虜収容所でしたが、実態は難民収容所でした。 日本軍が武装解除した後、日本に虐げられていた民衆の暴動が各地で起きていて、日本人は収容所に入っていた方がむしろ安全だったのです。

総自決から一転してソ連軍の武装解除を受けることになった詳しいいきさつは、お袋さん達には説明がありませんでしたが、朝鮮赤衛軍の分隊長に元日本軍の兵士だった人がいて、その分隊長が「ソ連軍は平和理に武装解除するはずだから、大勢の人の命を無駄にしないように」と、軍人達を説得したらしいとのことでした。 実際、噂と違って、ソ連軍は男を皆殺しにすることも女を略奪することもなく、お袋さん達はほっと一安心しましたが、それでもソ連軍を恐れる気持ちは消えなかったそうです。

また武装解除の後、軍人もお袋さん達も現金や貴重品を全てソ連軍に没収されました。 これは私有財産の没収といって、ソ連軍や朝鮮赤衛軍が日本人に対してさかんに行った行為です。 没収された物は建前としてはソ連や北朝鮮の共有資産になるとのことでしたが、実際には没収した兵士達が山分けしていたようです。 これはソ連軍や朝鮮赤衛軍に限らず、どの国の占領部隊もたいてい行う役得のようなものです。

ソ連軍の指揮下に入った直後は色々と戸惑うことも多く、何かとごたごたしていましたが、やがてそれなりに落ち着いて、ソ連軍の指揮下に入る前とそう大きくは変わらない生活に戻りました。 ただ収容所の周囲にソ連軍の歩哨が数名立つようになりましたが、それはお袋さん達を見張るためと言うよりも、反日暴徒などが侵入しないように見張るためと言った方が適当でした。 お袋さん達もどうやら本当に殺されたり乱暴されたりはしないらしいとわかり、今度は生き延びることに必死になり始めます。

それから数日たったある日、驚いたことに、ほとんど下着姿のオヤジさんがちょっと御手洗いにでも行ってきたというような何気ない顔で、突然、収容所に入ってきました。 オヤジさんの思いがけない登場に、お袋さんはびっくりし、しばらくは泣くことも忘れて呆然としてしまったそうです。

少し落ち着いてからオヤジさんの話を聞くと、お袋さん達が北朝鮮の収容所にいるらしいという噂を耳にし、南朝鮮から38度線を北上して何とかここにたどりついたとのことです。 その話には、お袋さんだけでなくオヤジさんと顔見知りの人達も、集団を率いていた軍人達も驚き、外部の情勢を知りたがりました。 そこでオヤジさんは8月9日の空襲の後、部隊が長春を出発したことから始めて、ここにたどりついた経緯をみんなに説明しました。

ソウル駅の駅員になりすまし、アメリカ軍の軍使を乗せた特別列車に乗ったオヤジさんは、列車がピョンヤン駅に着くと何食わぬ顔をして列車から降り、すぐに駅を抜け出し疎開部隊がいた日本軍の平譲兵器廠に行きました。 ところがそこはすでに朝鮮赤衛軍の本部に変わっていて、オヤジさんはいきなりスパイ容疑で逮捕されてしまいました。 スパイ容疑とは不思議に思われるかもしれませんが、戦時下の国家、あるいは独裁主義や共産主義の国家では、怪しい人物を逮捕する時はとりあえずスパイ容疑にしておくのが常套手段なのです。

オヤジさんは厳しい取り調べを受けましたが、以前、スパイまがいの活動をしていた時ならいざ知らず、今は本当に事実無根の言いがかりですから、相手も証拠が無くてお手上げになってしまい、手持ちの現金とめぼしい持ち物を没収されただけでどうにか釈放されました。 釈放されたオヤジさんは早速中国人に化けて、疎開部隊に関する情報を集めたところ、どうやら疎開部隊は解散し、ちりぢりになってソ連軍の指揮下に入ったらしいとのことです。

そこでピョンヤン付近を探しまわったところ、疎開部隊の中枢部にいた人達が平譲高等女学校の講堂に収容されていることがわかりました。 そこはまだソ連軍の指揮下には入ってなかったので、オヤジさんは堂々と入って行って元疎開部隊の中枢部の人達に会い、これまでのことを報告しました。 すでに疎開部隊そのものが消滅していたのでオヤジさんの報告は無意味でしたが、報告を受けた中枢部の人達は、わざわざ南朝鮮から報告に帰ってきたオヤジさんの律義さと言うか無謀さに感心したそうです。

自分の任務を果たしてしまうと、オヤジさんはそこを後にし、今度はお袋さん達を探すためにまたしても中国人に化けて情報を集めることにしました。 そして色々と情報を集めているうちに、関東軍の家族らしき人達がピョンヤンの80キロほど北、満州との国境から少し南下したところにあるソンチョンという町の小学校に収容されているらしいという情報を入手します。 そこでオヤジさんは、その情報をたよりにソンチョンに行ってみることにしました。

宣川小学校に着いてみると、そこはすでにソ連軍の指揮下に入っているらしくソ連軍の歩哨が数名立っています。 オヤジさんは歩哨の目をかすめて小学校の敷地内に忍び込むと、トイレを探しだして中に入り、着ていた中国人風の上着とズボンを便器の中に捨て下着とズボン下だけになりました。 そして下着や体や顔をわざと汚すと、いかにも避難民がトイレから出てきたというような何気ない顔で出て行きました。 歩哨は避難民にはあまり注意を払っていなかったので、オヤジさんは彼等に見とがめられることもなく講堂に入って行くことができました。 するとそこには、長春で別れた関東軍酒保部隊の家族達が大勢でゴロ寝をしていました。 その大勢の中から、オヤジさんは不思議なほど素早くお袋さんを見つけ出すことができ、ごく自然に近寄って行ったそうです。