玄関小説とエッセイの部屋エッセイコーナー行雲流水

【第1章 満州】

僕のオヤジさんは1916年(大正5年)に豊橋市で生まれました。 家業は庄屋だったそうですが、オヤジさんの父親(僕の祖父で、僕が生まれる前に死去しています)は、当時、陸軍第3師団司令部付の軍属(職業軍人ではなく、民間人で従軍している人)をしていたそうです。 当時の富国強兵政策によりこの頃は子沢山の家が多く、オヤジさんの家もすでに兄が2人と姉が1人いて、後にオヤジさんの下にも弟が1人生まれました。

この時代つまり大正後期から昭和初期にかけては、軍部が次第に台頭してきてファシズムの傾向が強くなってきた時代です。 そういった時代の雰囲気の中で、政府の軍国教育を受けて育ったオヤジさんは、当時の世間一般の男の子と同様に、立派な軍人になって”世の為人の為に”働くことをぼんやりと夢見るようになりました。 これは当時の軍国主義の世相では珍しくもないことでしたが、軍属だった祖父の影響も多分にあったのかもしれません。

1931年(昭和6年)、柳条湖事件を発端として満州事変が勃発します。 これ以前の1928年(昭和3年)に張作霖を爆殺していた日本軍は、満州事変を契機として中国東北部に侵略し、翌1932年(昭和7年)には関東軍(満州駐屯軍)を駐屯させ、傀儡政権による「満州国」を樹立します。 時の首相・犬養毅はこの日本軍の独断専行に反対し、軍の統制を図ろうとしますが、同年5月15日、軍部急進派の海軍青年将校らによって暗殺されてしまいます。 これが「話せばわかる」「問答無用!」のやりとりで有名な5.15事件です。

政党政治確立の立役者であった犬養首相の死とともに政党内閣は終焉し、軍部が政治に介入し始め、以後は軍人内閣や官僚内閣が続きます。 そしてそれらの政府は、「満蒙生命線論(中国東北部と蒙古地方は日本の国防上重要な地域であると同時に、この地域の経済的資源が日本にとって必要不可欠であるという主張)」を展開して、北方侵略政策を強化していきます。 翌1933年(昭和8年)には満州国を認めない国際連盟決議を不服として国際連盟を脱退、さらに翌1934年(昭和9年)にはワシントン海軍軍縮条約を破棄、1936年(昭和11年)にはロンドン軍縮会議から脱退と、日本は国際的孤立化・軍備拡張の道を進み始めます。

そして1936年(昭和11年)2月26日、陸軍青年将校らによるクーデター未遂事件が起こり、内大臣斎藤実ら4名の政府高官が暗殺されます。 これが、反乱軍に対する「今からでも遅くはない」という呼びかけで有名な2.26事件です。 この事件によって軍部がますます政治に介入し、軍国主義が進んで言論・思想統制が強化され、翌1937年(昭和12年)には盧溝橋事件を契機として日中全面戦争が勃発します。 そして1941年(昭和16年)12月8日、日本帝国陸軍がイギリス領マレー半島(現在のマレーシア)のコタバルに上陸し、イギリスに対して宣戦布告せずに奇襲攻撃を敢行し、その約1時間後、日本帝国海軍がアメリカに対してやはり宣戦布告せずにハワイの真珠湾を奇襲して、ついにイギリス連邦・アメリカ・オランダに対する太平洋戦争に突入──こうして、日本はひたすらファシズムと侵略戦争拡大の道を猛進して行くことになります。

このような侵略戦争の拡大に応じて、1937年(昭和12年)には「国民精神総動員運動」が開始され、続いて1938年(昭和13年)には「国家総動員法」公布、翌1939年(昭和14年)には「国民徴用令」発令と「興亜(こうあ)奉公日」制定、さらに翌1940年(昭和15年)には「部落会町内会等整備要領」によって、住民を戦争に協力させる目的で村に部落会、町に町内会を作り、その下に隣組が置かれ、国内の戦時体制が強化されて、日本全体が挙国一致で戦争を推進することになります。

また日本国民だけでなく日本の支配下にあった朝鮮半島の人々、さらに中国東北部の人々も強制徴用されたり、強制連行されて強制労働をさせられたりして(男は主として炭坑労働者として、女は主として慰安婦として労働させられました)否応なく戦争に巻き込まれていきます。

こうした時代の中で、1937年(昭和12年)に京都の中学校を卒業したオヤジさんはすぐに豊橋の歩兵第18連隊に召集され、翌1938年(昭和13年)に中支派遣軍として南京に出征しました。 学校を卒業したてで世間知らずの若者だったオヤジさんは、「日本の国土と国民を守り、大東亜圏(日本を中心とした東アジア一帯)の平和に貢献するための戦い」という政府の言葉を真に受け、本気で”世の為人の為に”戦うと信じていたのです。

実際にはこの戦いは中国に対する侵略戦争で、オヤジさんが南京に出征した前年(1937年)には、南京を占領した日本軍が数多くの南京市民を虐殺するという有名な「南京虐殺事件」が起きていましたが、当然のことながら、当時の日本国民はおろか、オヤジさんのような同じ軍隊関係者にすらその事実は伏せられていました。

ともあれ中国に渡ったオヤジさんは、そこで初めて戦争を体験します。 20歳そこそこの若者であったオヤジさんにとって、実際の戦争はやはり強烈な体験だったようで、脳裏に焼き付いて忘れられない光景がたくさんあるとよく話してくれました。 例えば突撃の途中で機関銃の一斉射撃を受け、両隣の戦友が撃たれて死んだのに、オヤジさんだけは幸運にも弾が太股を貫通しただけで助かったとか、重迫撃砲の砲弾が至近距離で炸裂し、身に着けていた衣服を全部吹き飛ばされて、ほとんど裸体に近い状態となって全身に無数の傷を負ったものの、奇跡的に命だけは助かったとか、とにかく生き残ったのは運だけだったそうです。

そういった戦争体験とは別に、この時、オヤジさんは中国大陸という土地と中国人の人間性に強い興味と好感を持ちました。 もともと茫洋とした風貌と鷹揚な性格のオヤジさんにはどことなく大陸的なところがあったのですが、中国に行ってみてそこがひどく気に入ってしまったらしいのです。

日中戦争が一段落した1940年(昭和15年)、オヤジさんは召集解除となって陸軍を除隊し、一旦、日本に帰国しますが、すぐに今度は関東軍の軍属に志願します。 一時的に召集解除されてはいましたが、当時の情勢では遅かれ早かれ再び召集を受けることは確実でしたし、オヤジさん自身も”お国の為に”役立ちたいと思っていました。 ですから、どうせ働くなら中国大陸で働きたいと考えたのです。 当時は政府の満蒙生命線論に基づいて満州の開拓民、いわゆる「満州開拓義勇団」を大々的に募集していましたが、軍隊経験しかないオヤジさんにとって、もう一度中国大陸へ行くには関東軍の軍属に志願するのが一番手っ取り早かったのです。 そして運良く元の部隊の分隊長の推薦を受けることができたオヤジさんは、翌1941年(昭和16年)、関東軍の軍属として満州つまり中国東北部に渡ります。

関東軍の軍属となったオヤジさんは、武道・馬術・通信・衛生・軍用犬および通信鳩訓練師などの訓練を受けるかたわら、語学の学校に通って中国語通訳の資格を取得します。 そしてソ連との国境を警備する国境警備隊に入隊し、中国人的な風貌と語学力を生かしてスパイもどきの活動もするようになります。 中国が気に入っていたせいもあって、オヤジさんは中国人の風俗習慣にすぐ溶けこみ、どこに行ってもほとんど日本人と見破られなかったそうです。

そういった活動中に、興安嶺の山中に住むオロチョン族(「オロチョンの火祭り」という歌で有名)という狩猟民族と行動を共にしたり、ソ連との国境であるアムール河流域の漁師達としばらくの間一緒に生活したり、狼の子供を拾って育てたりと、面白いエピソードが色々ありますが、今回は全て省略してまたの機会に譲ることにします。

さてそうこうして3年ほどたったある日、日本にいる両親から、突然、「お前の花嫁がもうすぐそちらに着くから、新京(現在の長春(チョンチュン))駅まで迎えに来てくれ」というとんでもない手紙が届きます。