玄関雑学の部屋雑学コーナー感染症数理モデル

10.日本の解析結果

日本のCOVID-19について、4月24日までのデータを用いて再解析したので追加説明をしておきます。 日本のデータはPCR陽性者のものしかなかったので、それを用いて解析しました。 PCR検査に限らず検査には必ず偽陽性と偽陰性があるので、陽性者数と感染者数が一致するとは限りません。 そしてPCR検査の精度はあまり良くないので、実際の感染者数は陽性者数の80〜90%程度ではないかと思います。 そのため以下の図はそのつもりで見てください。 (検査の診断率については当館の「統計学入門・第9章2第2節 群の診断と診断率」参照)

PCR陽性者数/1万人のグラフの黒い棒グラフは実際の1日当たりのPCR陽性者数数であり、青い曲線は左右対称な簡易モデルを当てはめた時の予想曲線、赤い曲線は左右非対称な簡易モデルを当てはめた時の予想曲線です。 一方、累積PCR陽性者数/1万人のグラフの黒いプロット「×」は実際の累積感染者数であり、青い曲線は左右対称な簡易モデルを当てはめた時の予想曲線、赤い曲線は左右非対称な簡易モデルを当てはめた時の予想曲線です。

左右対称な簡易モデルは流行曲線を左右対称な曲線で近似したものであり、流行が速やかに収束すると流行曲線がこのモデルに近似します。 それに対して左右非対称な簡易モデルは流行曲線を左右非対称な曲線で近似したものであり、流行がゆっくり収束すると流行曲線がこのモデルに近似します。

PCR陽性者数/1万人のグラフを見ると、棒グラフが不自然に少なくなっているところがほぼ7日ごとに存在することに気付くと思います。 これはPCR検査の週末バイアス(Weekend Bias)によるデータの偏りです。 土曜日と日曜日は検査施設が休みで検査をしていないところが多く、しかも検査結果はたいてい翌日にまとめて報告されるので、日曜日と月曜日の陽性者数が減り、その前後の日の陽性者数が増えるのです。

現在までのところ、日本には主に2つの流行があるようです。 1つ目は2020年1月15日に始まり、約70日後の3月下旬にピークを過ぎかかっていた比較的小さな流行です。 この流行は、左右対称な簡易モデルでは、約120日後の5月中旬に累積PCR陽性者数約0.13人/1万人(実数にして約1,600人)に収束すると予想され、左右非対称な簡易モデルでは、約160日後の6月下旬に累積PCR陽性者数約0.17人/1万人(実数にして約2,100人)に収束すると予想されます。

2つ目は3月下旬に始まり、現在はピークを過ぎている大きな流行です。 この流行は、左右対称な簡易モデルでは、約130日後の5月下旬に累積PCR陽性者数約1.1人/1万人(実数にして約14,000人)に収束すると予想され、左右非対称な簡易モデルでは、約240日後の9月中旬に累積PCR陽性者数約1.7人/1万人(実数にして約21,000人)に収束すると予想されます。 そして2つの流行を合わせて、左右対称な簡易モデルでは、約130日後の5月下旬に累積PCR陽性者数約1.2人/1万人(実数にして約15,000人)に収束すると予想され、左右非対称な簡易モデルでは、約240日後の9月中旬に累積PCR陽性者数約1.8人/1万人(実数にして約23,000人)に収束すると予想されます

厚労省対策推進本部クラスター対策班の徹底した調査によって、第1の流行はほとんどの感染源を中国までたどる――中国からの訪問者や帰国者等――ことができるのに対して、第2の流行は欧米由来の感染源――欧米からの訪問者や帰国者等――が多いことがわかっています。 そしてそのことは、ウイルスの遺伝子分析によっても裏付けられています。 (国立感染症研究所病原体ゲノム解析研究センター「新型コロナウイルスSARS-CoV-2のゲノム分子疫学調査」)

上のグラフは左右非対称の簡易モデルを当てはめた時の、第3章で説明したk値と、第2章で説明した倍加時間のグラフです。 1日ごとのPCR陽性者数の変化率を表すk値は、第1の流行では約0.24から始まり、徐々に小さくなって約68日後の3月下旬には約-0.02になりました。 ところがそこから第2の流行が始まったので急激に大きくなり、約71日後の3月26日に最大値0.34になりました。

このk値に1を足すと1日あたりの再生産数を表し、平均感染期間をかけて1を足すと実効再生産数Rtになります。 第2章で説明したようにCOVID-19の潜伏期間は平均5日程度であり、発症から診断・報告されるまでに平均8日程度かかっているそうです。 そしてCOVID-19は発症の2、3日前から感染性があることがわかってきました。 そのため平均感染期間は、発症の2、3日前から発症して3、4日後に医療機関を受診するまでの5日程度と推測できます。 そこで3月26日の5日前である3月21日頃に、実効再生産数はRt=0.34×5+1=2.7になっていたと思われます。

3月中旬〜下旬に欧米でCOVID-19の流行が拡大し、欧米からの帰国者が増えました。 それらの人達と欧米からの訪問者が欧米のウイルスを日本に持ち込み、さらに3月20日〜22日の3連休で多くの人が観光地や遊興街に集まりました。 これらのことが相乗効果的に影響して、3月下旬に実効再生産数が急激に大きくなり、第2の流行が起きたと考えられます。

一方、倍加時間は第1の流行では2日くらいから始まり、徐々に長くなって約68日後の3月下旬には18日以上になりました。 ところが3月下旬に第2の流行が始まったので急激に短くなり、約76日後の3月31日に5.6日になりました。 倍加時間は累積PCR陽性者数の変化から求めるため、1日当たりのPCR陽性者数の変化から求める実効再生産数よりも少し遅れて変化し、実効再生産数のピークよりも越し遅れて最短値になります。 したがって流行の動向を予測するには、倍加時間やK値(累積PCR陽性者数の変化率)よりも、実効再生産数やk値(1日ごとのPCR陽性者数の変化率)の方が適しています。

これらの状況をモニターしていた厚労省対策推進本部クラスター対策班は、3月末に東京都に警告を発し、遊興街の自粛要請を強く勧めました。 3月末には上のグラフの75日後までしか観測されていませんでした。 そのグラフで60日〜70日後つまり3月中旬〜下旬までの感染者数とk値の推移を見ると、クラスター対策版が危機感を抱いた理由がよくわかると思います。

クラスター対策版の警告を受けた東京都は、遊興街の自粛要請を行うと同時に、政府に対して緊急事態宣言の発令を要請しました。 そして4月7日になり、ようやく政府が7都府県の緊急事態宣言を発令し、4月14日にはそれを全国に拡大しました。 これら一連の対策が功を奏してk値は急激に低下し、4月13日以後は0以下になって第2の流行はピークを過ぎ、現在は徐々に収束に向かいつつあります

※5月末の追記

5月29日までのデータを用いて再解析した結果、流行は6月上旬に累積PCR陽性者数約1.4人/1万人(実数にして約17,000人)にほぼ収束しそうです。 この結果は4月24日における2種類の予想曲線のうち、左右対称な簡易モデルの予想曲線により近く、流行が比較的速やかに収束したことを表しています。 これは4月7日〜4月14日にかけて発令された緊急事態宣言を受けて、国民が自粛した効果と考えられます。

感染症数理モデルを用いた予想やシミュレーションは、特定の仮定――例えば「現在までの状況がこのまま変化しない」――に従って理論的に求めるので、実際の流行が予想通りに推移するとは限りません。 むしろ実際の流行が予想曲線のように推移しないように、感染予防対策の必要性を政府や国民に認識させるためのものです。 東京大学の稲葉寿教授は感染症数理モデルについて次のような意味のことを言われています。

感染症数理モデルは自動車のスピードメーターのようなものであり、感染症数理モデルを使わずに感染予防対策を立てるのはスピードメーターの無い自動車を運転するようなものだ。 例えばスピードメーターの『時速100km』という表示は『1時間後には現在地から100km先の地点に移動している』という予想を表す。 しかし現実には、この予想が当たることはまずない。 スピードメーターは『現在の時速100kmというスピードは速すぎて危険だからブレーキをかけるべきだ!』と運転手に認識させるためのものなのである」

この基本的なことを理解せずに、

「予想が外れたので、感染症数理モデルは役に立たない!」
 とか
「予想が外れたので、感染症専門家は責任を取るべきだ!」

などと、ナンセンスなイチャモンをつけたがる人がいるようです。 そういう人は、自動車が時速100kmのスピードで走っていたので、運転手がブレーキをかけて安全運転をした結果、1時間後に50km先の地点に移動したのを見て、

『1時間後に100km先の視点に移動している』という予想が外れたので、スピードメーターは役に立たない!

なとど、非常識なイチャモンをつけているようなものです。(^^;)