SIRモデルにおいて、最初の感染者が閉鎖集団に侵入または発生した時をt=0とし、S区画の最初の人数をS(0)=S0、I区画の最初の人数をI(0)=I0(初期感染者数)、R区画の最初の人数をR(0)=0とします。 すると感染の初期はS(t)≒S0と定数扱いできるので、I区画の微分方程式を次のように近似できます。
この近似微分方程式の解は次のような性質を持つ指数関数になります。
つまりI(t)はβS0とγの大小関係によって指数関数的に増加したり、指数関数的に減少したりと、対照的な挙動をします。 このような現象のことを閾値現象(threshold phenomena)といいます。 閉鎖集団における感染の初期段階では(βS0-γ)>0つまりβS0>γの時、I(t)が指数関数的に増加し、感染症が流行し始めます。 I(t)は指数関数的に増加するので、最初のうちは流行に気が付きませんが、次第に加速していき、ある時、突然――と、普通の人には思えます(^^;)――急激に増加して大流行します。 この段階のことを爆発的患者急増(overshoot)といいます。
具体的には、累積感染者数が2〜3日で倍増する段階のことを爆発的患者急増と呼んでいるようです。 ただし感染の初期で感染者が1人か2人の時は、たいてい1日か2日で累積感染者数が2倍以上になります。 でもその場合は爆発的患者急増とは呼ばず、累積感染者数が2〜3日で倍増し、しかも通常の医療体制ではそれに対応し切れない、つまり医療崩壊しそうな時に爆発的患者急増と呼ぶようです。 したがって「オーバーシュートを起こしたので医療崩壊しそうだ!」というのは順序が逆で、「医療崩壊しそうなほど患者が急増しているので、これはオーバーシュート(本来は目標を超える信号が発生したという意味)だ!」というのが実際のところのようです。
この爆発的患者急増段階の前に何らかの感染予防対策を実施し、(βS0-γ)<0にすることができれば、I(t)は指数関数的に減少して流行は終息します。 そのためには、例えば次のような対策が考えられます。
この様子は次の図を見るとわかりやすいと思います。 新型コロナウイルス感染症対策会議の調査では、COVID-19の潜伏期間は平均5日程度で、発症から診断・報告されるまでに平均8日程度かかっているそうです。 そのため実際に観測された感染者数は、実は2週間ほど前に感染した人達の動向を表していて、感染予防対策を実施した効果は2週間ほど後に感染者数に反映されます。 図の赤い曲線が感染時の動向で、青い曲線が実際に感染者として観測された時の動向です。
爆発的患者急増段階を見極める指標として倍加時間(Doubling Time)という値があります。 これは累積感染者数が2倍になるのにかかる時間のことで、次のように定義されています。
Tdの定義式の分母Kは、t=t1〜t2(例えば7日間)における累積感染者数関数C(t)を指数関数で近似した時の傾きに相当します。 そしてこの式から、薬物動態モデルや放射性元素の崩壊モデルに詳しい人は、倍加時間は半減期と同様の指標であること分かると思います。 半減期(half-time)とは、指数関数で表される薬物動態モデルや放射性元素の崩壊モデルにおいて、薬物の血中濃度や放射性元素の量が半分になるのにかかる時間を表す指標です。
SIRモデルにおいて、実際に観察できるのはI区画の中の一部であるγI(t)の人数と、それを累積したR区画の人数R(t)です。 そしてI(t)とR(t)とC(t)の関係を利用すると、次のようにして倍加時間を求めることができます。
2番目の式からK値は時点tの近傍でR(t)を指数関数によって近似した時の傾きであり、R区画の単位時間あたりの変化率を表すことが分かると思います。 そしてTdが2〜3日で、しかもR(t)の急増によって医療崩壊を起こしそうな時、爆発的患者急増段階と判断します。 そのため倍加時間はI(t)とR(t)が指数関数的に増加している時に注意すべき指標です。 また流行の様子が変化した時、倍加時間は3章で説明する実効再生産数よりも少し遅れて変化します。 そのため流行の動向を予想するには倍加時間よりも実効再生産数の方が適しています。
ちなみに大阪大学核物理研究センターの中野貴志教授が、COVID-19の流行動向を予想する指標として1週間を単位にしたK値を提案されています。 中野貴志教授が書かれたK値の解説には「K値は感染症数理モデルで以前から用いられている倍加時間と実質的に同じものである」という記載はないので、ひょっとしたらこのことを御存知ないのかもしれません。