次に後援会の構成案を決めました。 役員の内諾を貰う段階では、執行部役員として会長、副会長、会計、事務局長、そして顧問の5名を予定していて、各地区と各種団体をまとめる役員として10〜15名ほどを予定していました。 後援会や自治会などの組織は、会長、執行部、役員、会員というピラミッド構造をしているのが一般的です。 そして何かの案件を作りたい時は、まずそれについて一番詳しい人がたたき台を作り、次に執行部でそれを練り上げて原案にし、それから役員会で色々な面から検討を加えて最終案にし、最後に組織のメンバー全員が集まって総会を開き、最終案を組織全体のものとして決定し、内容について周知徹底して意思統一する、という方法を取るのが普通です。
僕は、執行部は5名以内、役員会は10名以内にするのが良いと思っています。 これは、ひとりの人間が把握できるメンバーの数は10名程度が限度であり、その中でチームワーク良く物事を行うことができるのは5名程度が限度である、という経験則に基づいています。 この経験則は、後援会や自治会に限らず、会社などにも当てはまります。 特に打ち合わせや会議は、人数が少ないほど内容のある話し合いができるものです。 人数が多いと、地位が上の人の意見に引きずられたり、声の大きい人の意見にひきずられたり、その場の感情的なムードにひきずられたりしがちで、ろくなものになりません。
後援会の執行部と役員の数は、この経験則に基づいて決めました。 しかし町長と地元の政治団体K会の推薦を受けることになり、役員が一挙に増えて50名程になってしまいました。 そこで最初から役員に内定していた10名程の人を代表役員に、それ以外の役員をサブリーダー役にし、代表役員だけで代表役員会を構成して、それを役員会扱いすることにしました。
最後に規約案を決めました。 規約案は、候補者のRさんが会長をしていた後援会のものを参考にし、それを適当に修正して作りました。 区長の時に規約をやたらと作った経験があるので、これは比較的簡単にできました。 自治会関係の委員会や団体の中で、僕が区長になった時に規約があった団体は、わずか2つしかありませんでした。 何しろ自治会や、町役場の指導で設立された小学校区のコミュニティ推進協議会でさえ規約はなかったのです。 そこで僕は、自分が代表になった自治会やコミュニティ推進協議会はもちろんのこと、区長の仕事と関係の深い団体にも規約を作ることを薦め、有難迷惑のいらぬお節介と知りつつ、規約の原案まで作って強引に規約を制定してもらいました。
余談ですが、僕が区長を辞めた後に、こういった団体が会費などを銀行や郵便局に預ける際に、規約の写しと責任者の住所氏名を提出することが義務付けられました。 これは、脱税のために名前だけの幽霊団体名義で預金をすることを防ぐための措置であり、ペイオフに関係して規則が厳格に適用されるようになったのです。 その時、僕が強引に規約を制定してもらった団体の役員の人達は、以前のことをすっかり忘れたように、自分達の先見の明を誇らしげに人に語っていました。 それを見た僕は、これではまるで、自分が反対したプロジェクトでも、成功したとたんに自分の手柄にしたがる会社の上層部と同じだなぁ……と苦笑いしたものです。
それから後援会は政治団体の一種なので、代表者3名が署名捺印した届出書を町役場に提出する必要があります。 また毎年の活動報告書と、会計報告書の提出も義務付けられています。 そこで代表者3名は会長、会計、事務局長が担当し、活動報告書と会計報告書は総会で承認されたものを提出するということにしました。
こうして一応の原案ができたので、執行部案にするために、副会長であるCさんと顧問である現町会議員のMさんの意見を聞くことにしました。 ところがこの原案を見た2人は戸惑って、これまでは正式な発起人会を開いたことはなく、このような後援会の方針とか規約などについて議論したことはないというので、僕とRさんは驚きました。
従来は、立候補予定者と後援会の幹部数名が後援会設立について話し合い、役員予定者の内諾をもらった後、発起人会を開かずに、役員予定者と選挙の協力者を集めて、いきなり結成大会兼懇親会を開いていたというのです。 そしてそれで後援会が正式に発足し、そのまま選挙活動に突入していて、総決起大会も開いたことはないとのことでした。 形の上では、幹部数名での話し合いが発起人会に相当し、役員会予定者と選挙の協力者を集めた会が結成大会兼総決起大会に相当するという、相当簡略な選挙活動をしていたわけです。 まあ、ほとんど顔見知り同士の地元だけで選挙活動を行い、地元票だけで当落が決まるこの土地の町会議員選挙では、それでかまわないのでしょう。
しかし、そういった従来の地縁型活動に、住民参加の草の根型活動を融合したいと考えていた僕は、できるだけ多くの住民を活動に取り込み、できるだけ多くの住民の意見を反映した活動をしたいので、できればちゃんとした手順に従って後援会を発足した方が良いと強く主張しました。
一緒に原案を作成した他の執行部の人も、一応は僕の意見に賛成してくれました。 しかしどの人も、Mさんの選挙活動とは別の方式の選挙活動をしてきた人ばかりなので、Mさんの後援会のメンバーが中心になると思われる今回の後援会を、そのような方式で行うべきかどうか、明確には判断できませんでした。 また実際問題として、そういったやり方に慣れた人達に僕が主張するような手順を押し付けるのは、慣習的な面から見ても、スケジュール的な面から見ても、かなり無理があるのは確かです。 このため選挙初体験の僕がリーダーシップを取って、それをやり遂げられる自信は正直いってありませんでした。
そこで執行部で色々と検討した結果、当初の計画と従来のやり方との折衷案的な方式を採用することにしました。 つまり発起人会と結成大会はとりあえず従来の方式で行っておき、それ以後は、できるだけ当初の計画通り実施することを目標にする──あくまでも「目標にする」なんですよ、川崎さん!(^^;)──という方針で行くことになりました。 その結果、基本方針の原案作りをしたこの話し合い自体が発起人会になり、発起人会として予定していた11月中旬の会を、役員予定者だけでなく、サブリーダー格の会員予定者や、一般の会員予定者などにも集まってもらって後援会結成大会にし、それ以後はできるだけ標準的な手順を踏むよう努力する、ということになりました。
こうして、僕がドン・キホーテ的に目指した理想的な選挙活動は、現実を目の前にしていきなり妥協するという、前途多難を予想させるようなスタートを切ることになりました。
それから、従来のやり方では結成大会の後で懇親会を開いていて、結成大会そのものよりも、むしろそちらの方が主目的のような感じだったようです。 そして懇親会は一応、会費制ですが、こういった会の会費は実際の費用の半額程度であり、残りは後援会からの補助金という名目で、立候補者が負担するというのが慣習になっていました。 そのような懇親会や親睦会は、区長の時に町長や県会議員の後援会などで経験して驚き、いい加減うんざりしていました。 そのため、今回の後援会ではそのような悪しき慣習を払拭しようと思い、結成大会の後の懇親会は廃止するか、完全会費制にすることを提案しました。
この提案は、実は僕にとっては前例のあることでした。 区長の時に行った自治会改革の一環として、同じようなことをしていたのです。 僕が区長になった時の自治会総会は、地元神社の氏子総会も兼ねていました。 このため総会は、毎年2月に行われる恒例の春祭りの後に開催されていて、その後に春祭りの懇親会と総会の懇親会を兼ねた懇親会がありました。 総会への参加は自由で、しかも定数が決められておらず、議題は自治会関係のものと氏子会関係のものが混ざっていました。 そしてその運営は自治会役員と氏子会の年番役員が共同で行い、懇親会の経費は自治会会計と氏子会会計の両方から賄うという、正に政教一致の総会兼懇親会だったのです。
それまでは、総会に限らず色々な面で政教分離が明確に行われていなかったので、僕は自治会の規約を制定して、氏子会と完全に分離しました。 そして自治会総会の定数と参加者を定め、自治会総会と氏子総会を分離して、自治会総会の開催時期を、会計年度末である3月末にずらしました。 さらに総会の後の懇親会を廃止して、氏子総会の後の懇親会の扱いは氏子総代さん達に一任しました。 このため、懇親会を楽しみにして総会に参加していた総会常連さん達には、けっこう恨まれました。
後援会の懇親会についても、この際、悪しき慣習は改めるべきだと僕は思いました。 しかし僕の提案に対して、発起人会と結成大会を従来のやり方で行うと決めた以上、懇親会も従来のやり方で行うべきであり、そうしないとみんなが快く協力してくれないかもしれないという意見が大勢を占めました。 Rさんも、それが悪しき慣習であることは重々承知していながら、自分のためにみんなが色々と苦労してくれることに対して、お礼の意味でせめて食事くらいは負担したいという気持ちが強く、やはり従来のやり方で行うことに賛成しました。
僕は、
「後援会というものは、要するに立候補者のファンクラブのようなものであり、立候補者の人格に惚れ込んだ人や、政策に賛同する人が、立候補者の政治活動を支援するために作った組織なのだから、立候補者が、みんなの意見を反映した誠実な政治活動をすることが一番のお礼であり、食事や物品を提供することではないはず」
「理想論としては理解できるが、現実的にはある程度具体的な何かで誠意を示すことが必要であり、そうやって誠意を示すことに立候補者も後援会の会員も慣れているのだから、それに従う方が無難だ」
こうしてまたしても現実の前に妥協せざるを得ないことになり、僕は内心忸怩たるものがありました。 しかし今回は初めての選挙なので、従来のやり方に従うのはある程度仕方がないとして、次回の選挙までには、後援会全体のやり方をできるだけ理想に近い方向に変えてやろうと決意しました。
この話し合いの結果、11月中旬に予定していた発起人会の代わりに、結成大会と懇親会を開催することになったため、大急ぎで場所を確保し、案内状を作って役員予定者と会員予定者に配布しました。 幸か不幸か、会員予定者はまだほとんどいなかったため、参加者は発起人会とあまり変わらないメンバーになり、思ったほど大規模な会にはなりませんでした。
会議の内容としては、まず立候補者の紹介と挨拶があり、その後で執行部で作成した後援会の役員と組織、基本的な活動方針、今後の予定などの案を説明しました。 執行部で作成した案はまだ役員予定者に見せておらず、執行部原案の段階でした。 しかし司会進行役を仕切り屋の僕がやったせいか、それともみんなが早く懇親会に入りたくて、会議を早く終わらせようとしたせいか、拍子抜けするほどすんなりと承認され、質問も意見も特に出ませんでした。
こうして結成大会と懇親会は無事に終了し、ようやく後援会が正式に発足しました。 Rさんと執行部の人達はとりあえず一安心し、今後の活動に対する意欲を新たにしました。 しかし迂闊なことに、会が終わってしまってから、僕はドキリとするようなことに気付きました。 それは、投票日の前後90日間は、選挙に関連して金銭や物品を授受することは禁止されているという公選法の条項です。 当初の計画では11月中旬に予定していたのは発起人会であり、懇親会を行うということは僕の頭には全くありませんでした。 このため、投票日の前後90日という条項をうっかり忘れていたのです。
もちろん懇親会は建前上は会費制であり、参加者から会費を徴収して領収書を渡し、食事代との辻褄も合わせてあります。 ただお酒と酒の肴を発起人の有志が差し入れたということにして、それは実際には立候補者が負担していました。 これはたとえ立候補者自身が負担しなくても、後援会の幹部が負担すればやはり選挙違反になります。 そして連座制という公選法の条項によって、立候補者も選挙違反になります。 投票日は2004年の2月中旬と予想されているだけで、実際に公示されるまで正確な日付はわかりません。 このため、今回の懇親会が選挙違反になるかどうかはまだわかりませんでした。 しかし危ない橋は渡らないのが一番ですから、懇親会を開くなら、少なくとも投票日の半年以上前に行うべきでした。
このことにもっと早く気付いていれば、懇親会を完全会費制にするか、それとも取り止めることができたのにと僕は悔やみました。 今更、改めて会費を集めるわけにもいかないので、僕はこのことを執行部の人達に説明し、これからは十分注意するように念を押すだけにしました。 しかしこの土地の慣習では、投票日の前後90日以内でも堂々と懇親会が開かれているので、僕の悔やみと危惧をよそに、選挙経験者の人達はあまり気にしておらず楽観的でした。 もちろん僕も、この程度のことで選挙違反として告発されるようなことはないだろうとは思いました。 しかし悪しき慣習を改めるせっかくのチャンスを、みすみすふいにしてしまったことが残念でなりませんでした。