玄関小説とエッセイの部屋エッセイコーナー選挙四方山話

【第8章 結果報告期間】

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こうして、選挙費用の整理は無事に終わりました。 しかし、後援会の会計の整理というやっかいな仕事がまだ残っていました。 選挙運動と後援会活動の区別がけっこう難しいため、選挙運動の経費と後援会の経費の区別も、シロウトにはかなり難しいところがあります。 原則として、選挙運動期間以外に行った活動は全て後援会活動になるので、その活動費は後援会の経費になります。 ただし選挙運動に使用する七つ道具は選挙期間の前から準備し、その経費は選挙用になります。

例えば選挙ポスターと選挙用看板、そして選挙用の推薦ハガキは選挙期間の前から準備します。 しかしそれは選挙期間しか使いませんので、経費は選挙運動の経費になります。 ところがそれと同じ時期に、同じ業者に依頼して作成した後援会用のポスターと看板、そして後援会入会用のリーフレットと、後援会会員に出した出陣式の案内ハガキは後援会の経費になります。 また事務処理用の文房具は、後援会でも選挙運動でも同じものを使い回ししました。 このため、全て後援会の経費で処理しました。 どちらの経費で処理すれば良いのか迷ったのは、出陣式と打ち上げ会で目入れをしたダルマでした。 これは選挙用ですが、選挙運動ではなく儀式ですから、結局のところは後援会の経費で処理しました。

最終的に、後援会の経費として処理したのは約10万円程度でした。 これは全て候補者か選挙スタッフが立て替えていたので、それを後援会の会計から支払うことにしました。 ところが後援会の会計はその時まで動いておらず、後援会の会計役のDさんは、事実上、選挙運動の会計補佐として働いていました。 そこで僕はDさんと相談して、後援会の会計処理を一緒に行うことにしました。

後援会の経理に関しては、会費制ではなく、必要に応じて会費を徴収し、それと有志の寄付金で運営するという規約にしてありました。 しかし、その時はまだ後援会の収入は全くありませんでした。 そこで、とりあえず会計役のDさんが後援会の経費を全て立て替えておき、この後で会費と寄付金を募ることにしました。 その時点で後援会会員は約500名ほどいました。 しかし中には名前だけの会員もいるでしょうから、全員から会費を徴収するというのは現実的ではありません。 そこで半分程度の人から会費を徴収できると仮定して、会費として500円を徴収することにしました。 後援会の役員は約50名いるので、その人達が平均して5名の人から500円の会費を集めればいいことになります。 これは、それほど無理なことではないと思えました。

選挙後、最初に開かれた幹部会で、僕はこの案を提案しました。 ところが意外なことに、現町会議員Mさんの後援会幹部だった人達はこの案に難色を示したのです。 そして驚いたことに、従来は後援会で会費を徴収したことはなく、後援会の活動費用は、Mさんのポケットマネーと、幹部を中心にした有志の寄付金で賄っていたことがわかりました。 といっても、実際には後援会は選挙の時しか活動を行っておらず、事実上、有名無実なものだったので、選挙の時以外に活動費は発生しなかったのです。

Mさんの後援会幹部だった人達にとって、後援会の役員が会員全体であり、一般会員のことはほとんど眼中に無いということは、後援会発足時によくわかっていたはずでした。 実際、その人達は、僕が苦労して作った後援会の一般会員名簿は、選挙運動中も選挙運動後も見ようともしません。 しかし、その人達がそこまで一般会員のことを無視していて、選挙が終われば後援会活動をする気など全くないということを知り、今更ながらにあきれてしまいました。

後援会とは、本来は議員の政治活動を支援するためのものであり、選挙活動をするためのものではないはずです。 僕は今回の選挙が無事に終わったら、後援会活動のやり方をできるだけ理想に近い方向に変えてやろうと決心していましたが、それが予想以上に困難なことであることをあらためて認識しました。

それでもここで怯んでいては始まらないので、新町会議員のRさんが住民の声を吸い上げ、それを町政に反映できるように、今後は後援会活動を継続的に行うこと、そして会員の自覚を促すために、できるだけ多くの会員から会費を徴収することを強く提案しました。 しかしMさんの後援会幹部の人達は、一般会員のことなどは最初から眼中になく、役員から会費を徴収するかどうかだけを問題にしました。 そして会費は徴収しない方が良いという意見と、役員だけから会費を徴収する方が良いという二つの意見が出ました。

当然、これらの意見に僕は反対し、喧々諤々の激しい議論になりました。 Rさんはもちろん僕の案に賛成でしたが、後援会のことに議員が口出しすべきではないので、黙って成り行きを見守っていました。 議論の結果、残念ながら僕の案に賛成する人は会計役のDさん以外におらず、一般会員から会費は徴収せず、役員だけから会費を徴収するという意見が大勢を占めました。

そこで僕は、それならばそれを執行部案としてまとめ、役員会を開いて意見を聞き、正式に決議をするべきだと提案しました。 しかしMさんの後援会幹部の人達は、役員全員から徴収するということを正式に決定すると、強制的になってしまい役員の負担が大きくなるので、役員を中心にした有志から寄付金を集めることにして、役員会は開かない方がいいという意見でした。 そして最終的にはその意見が通り、今回の選挙でかかった費用を賄うために必要な金額だけを、有志から寄付してもらうということになりました。 要するに、従来から行ってきた方法をそのまま行うことになったわけです。

その結果、僕が考えるような後援会活動を継続的に行うことは、事実上、不可能になってしまいました。 そしてMさんの後援会幹部の人達が、そのような活動を行う気がないことは明白でした。 後援会幹部の人達がこんな考えでは、町会議員は後援会の幹部の意見だけを聞くことになり、できるだけ多くの住民の声を吸い上げて、それを町政に反映するということなどできるはずがありません。 これが地方政治の実態かと思うと、僕は腹が立つのを通り越して情けなくなってしまいました。 町会議員が住民の意見を吸い上げ、それを町政に反映するという基本的で当たり前のことができないとは、情けないにもほどがあります。

区長時代に町政の一端にかかわり、地方政治の前時代的な実態をある程度はわかっているつもりでした。 しかし今回の選挙で町会議員の後援会活動に深くかかわり、今更ながらに日本の民主主義の底の浅さを痛感しました。 もちろん、日本中がこのT町のような状態というわけではないでしょう。 しかしT町が非常に特殊な町というわけではなく、どこにでもよくある町のひとつにすぎず、日本の多くの地方が似たりよったりの状態ではないかと思います。

しかこの時は、まだあきらめていませんでした。 いくら後援会の幹部がその気でも、Rさんと一緒に独自に小集会活動を行い、草の根活動を続けて住民の声をできるだけ吸い上げたいと考えていました。 そしてRさんもそのつもりでいて、僕と一緒に活動することを約束してくれました。

選挙が終わって2週間ほどした頃、地元の特殊な政治団体K会の懇親会が行われました。 これは、K会が推薦した僕の地区のRさんと、隣の地区のTさんの当選祝いの会であり、選挙戦を争った2つの陣営の親睦会も兼ねたものでした。 この懇親会には、町長と県会議員が来賓として招かれていました。 つまり縄張り争いをした2つの組が、大親分の前で手打ち式を行ったわけです。

この時期は選挙の前後90日以内ですから、本来は打ち上げ会のようなものは開くことはできません。 そこでK会の懇親会ということにして、一応、会費を徴収しました。 しかしそれは実際には料理の代金だけで、それとは別に2人の新町会議員がポケットマネーから酒代を出していました。 これが、この土地の典型的な後援会活動なのです。 僕は、もちろんその会に出席しましたが、そういったやり方を見ても今更驚きませんでした。 そしてRさんと一緒に行う草の根活動は、こういったやり方とは正反対のものにしようと決意を新たにしました。

Rさんも、今回、Mさんの後援会幹部の人達や、K会の人達と付き合ってみて、驚くことばかりで戸惑っていました。 そしてその人達とうまく付き合いながらも、できるだけ自分の信念を貫き、地区の住民の意見を吸い上げて、新しいやり方に変えていきたいという考えを持っていました。

ところがそれからしばらくして、Rさんの決意を試すような出来事が起こりました。 新町会議員の顔ぶれが決まり、最初の町議会が開かれた時のことです。 断トツのトップ当選をした元町長の町会議員Cさんが、現町長の町政について鋭い質問を行い、町政を色々と批判したのです。 Cさんがわざわざ町会議員に立候補した目的は、現町長の批判をするためですから、これは十分に予想されていた行動です。 何しろ現町長の前に町長をしていた人物ですから、町政の裏も表も知り尽くしています。 そのため、それらの批判は痛いところをついているものばかりで、現町長は鋭い批評をかわしきれませんでした。

そこで現町長は、Cさんを議会から締め出そうと考え、町長派の町会議員にとんでもない動議を提出させました。 それは、Cさんが議会をいたずらに混乱させているので、Cさんに議員辞職勧告をし、もし辞職しないのなら、議会で発言する権利を剥奪するという動議です。 選挙後の町議会は、町長派と反町長派の議員の数が拮抗していました。 このため少数の共産党議員と、日和見的な中間派の議員の動向によって、決議がどちらに転ぶかわからない状態になっていました。 そして当然のことながら、このとんでもない動議には、反町長派の議員と共産党の議員が猛反対しました。 その結果、その動議の採否は日和見的な中間派の議員の動向如何にかかってきました。

Rさんは、本音としてはその非常識な動議には反対でした。 しかし選挙で町長に応援を頼んだ上、町長を支持しているK会の推薦を受けたので、周囲からは町長派の議員と考えられていました。 そして今回の動議をどうしても可決したい町長は、町長派の議員と日和見的な中間派の議員、そして彼等の後援会に圧力をかけてきました。 そしてRさんの後援会幹部の人達は、Rさんがその決議に賛成するのは当然だと考えていて、Rさんにもそのように進言しました。 その結果、Rさんは自分の信念を貫くか、それとも後援会幹部の人達の信頼を裏切らないようにするかで、板ばさみになってしまいました。

僕は、当然、Rさんに自分の信念を貫くように助言しました。 しかしRさんの苦しい立場もよく理解できたので、何が何でも信念を貫くべきだとまではいえませんでした。 第3章で説明した町長との裁判沙汰の時、僕は元区長という気楽な立場だったので、自分の思ったとおりに行動しました。 しかしRさんの場合は僕ほど気楽な立場ではないので、自分の思ったとおり行動するのは難しいかもしれないと感じたのです。

Rさんは悩んだ末に、最終的には決議に賛成することにしました。 しかし元々真面目な人なので、そのことで今後の議員活動に対して疑問を感じるようになりました。 町長派と反町長派が拮抗している現在の町議会では、今回のようなことがこれからもしばしば起こるでしょう。 そうなると、そのたびに町長と後援会幹部の顔色をうかがわなければならないことになります。

そもそも町長や後援会の幹部の人達のいうとおりにしか行動できないとしたら、何のために議員になったのかわかりません。 Rさんは、そんな操り人形のようなものになるために議員に立候補したのではなかったはずです。 また僕にしても、Rさんがそんな情けない議員にならないように後援会を手伝うことにしたはずです。 そういった悩みを打ち明けられた僕は、事ここに至って、ようやく選挙前に立てた僕等の作戦が間違っていたことをはっきりと認識しました。

僕とRさんが選挙前に立てた作戦は、次のようなものでした。

この方針が折衷的かつ妥協的なものであることは、最初からわかっていました。 そしてこの土地では、住民参加・草の根型の活動を行うことが非常に難しいことも、自治会活動の経験を通してある程度わかっていたつもりでした。 それがわかっていながら、あえてドン・キホーテのように無謀な選挙活動を目指すことにしたのは、はっきりいって僕の天邪鬼的な性格のせいです。

しかし、いくら当選を確実なものにするためとはいえ、従来から行われている政党・組織型に準じた地縁型選挙活動をベースにし、主義主張が異なるとわかっていた人達の支持と協力を受けたのは大きな間違いでした。 そういった人達の支持と協力を受ければ、当選後、その人達のいうことを聞かなければなりません。 そして今回のようなことがたびたび起これば、その人達のいうとおりに動くロボットになるか、それとも自分の信念を通して、その人達と袂を分かつことになります。 その人達は、その人達なりに良かれと思ってRさんに進言してくれているのですから、当選したとたんに手の平を返したようにその人達を無視するのは、やはりその人達に失礼です。 それは、僕が忌み嫌う悪徳政治家(^^;)のやることです。

それよりも、僕のコーチをしてくれた選挙プロHさんがアドバイスしてくれたように、最初から住民参加型・草の根型の活動を中心にして、Rさんの主義主張を真正直に主張すべきでした。 その主義主張に賛同してくれる人達が当選できるほど多ければ、当然後、正々堂々と自分の信念どおりに行動することができます。 賛同してくれる人達が少なく、当選できなければ、それはそれで仕方がありません。 そのような土地でいくら理想を叫んでみても、それを理解して協力してくれる人がいなければ理想を追求することはできず、むしろ多くの住民にとってありがた迷惑にしかなりません。

やはり選挙プロのいうことは素直に聞くべきだったと、僕は今更ながらに反省しました。