玄関小説とエッセイの部屋エッセイコーナー選挙四方山話

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年始回りが終わると、次は町長の後援会が主催する伊勢神宮参拝バス旅行があります。 これは各地区の後援会会員を中心にして参加者を募り、貸し切りバスを何台も仕立てて伊勢神宮に初詣でに行くという新年恒例の行事です。 後援会が主催する親睦行事ですから、当然、会費を集めます。 しかしこういった後援会主催行事の会費は、本当の実費の半額程度というのが相場であり、残りの半額は後援会会計の補助金で賄うという建前で、その実、政治家の懐から出ます。

お伊勢参りとは、いかにも農家と老人が多いT町らしい行事です。 これが県会議員の後援会が主催する親睦旅行になると、北海道旅行とか沖縄旅行などになります。 実際、数年前の何周年かを記念した親睦旅行はハワイ旅行だったそうです。 こういった旅行に実費の半額程度の会費で行けるのですから、喜んで参加する人も中にはいます。 しかしたいていは町長や県会議員に対する義理と、参加者数で他の地区に負けたら恥ずかしいという地区の見栄のために参加する人が大半です。

またこういった後援会の旅行に沢山の人が参加した地区の申請から優先的に許可されるとか、その地区に道路を通してもらえるという噂があります。 中には、

「今年はウチに道路を通してもらわにゃならんから、参加者をバス3台分も集めたわい!」

とか、

「去年、苦労してバス3台分の参加者を集めた甲斐あって、やっと住宅の側溝を作ってもらえたわい!」

などとおおっぴらに吹聴する地区役員もいます。

しかし、さすがにバスの台数だけで申請の許否が決まるというほど政治は単純ではなく、そういった後援会活動を始めとする色々な活動を通して、いかに政治家の権力保持や権力拡大に貢献したかという高度に政治的な判断(^^;)が、申請の許否に大きく影響するようです。 事実、

「いつも吼えてばかりいたり、噛みついたりする犬に、何の義理で餌をやらにゃならん。 やっぱり、尻尾を振ってなついてくる犬に餌をやりたくなるのが人情だわなぁ」

と、堂々と公言して憚らない政治家もいました。 (僕自身が、町長から面と向かってそういわれました。σ(~~;))

伊勢神宮参拝バス旅行の次は、地元の特殊な政治団体であるK会(仮名)の新年会があります。 K会は地元小学校区の農家が中心になって組織している団体で、ある時は県会議員の支援団体になり、ある時は町長の支援団体になり、ある時は町会議員の支援団体になり、はたまたある時は地元の利権を守るための圧力団体にもなるという、かなり特殊な政治団体です。

地元小学校区の公の団体としては、区長連合と自治会連合と各種任意団体などで構成する小学校区コミュニティ推進協議会があります。 しかしそれはあくまでも住民の親睦のための表の団体であり、政治的な裏の活動はそのK会が中心になって行っています。 そしてそのK会の各地区の役員は、自治会役員を兼任していたり、自治会役員経験者であったりすることが多く、コミュニティ推進協議会を凌駕するほどの強い組織力と政治力を持っています。

僕は、1年目の区長の時は、地元A地区の町会議員Mさんに誘われて、飛び入り的にこのK会の新年会に参加し、2年目の区長会長の時は来賓として招かれました。 そして県会議員、町長、町会議員と並んで雛壇に座らされ、来賓の挨拶をさせられました。

このK会はあくまでも地元の利権を守るための政治団体であり、ある意味で思想や党派を超越しています。 元々、A地区は兼業農家が多く、兼業先として国鉄や鉄鋼関係に勤めていた人が多かったせいで、農業協同組合関係者と鉄道の労働組合関係者が中心になって政治活動を行っていました。 その人達が作った組織が、このK会の前身のひとつです。

そのためT町の他の地区が自民党寄りだったのにひきかえ、A地区だけは社会党寄りであり、K会の前身の組織は社会党系の政治家の支援活動を行っていました。 そしてA地区の町会議員も、最初のうちは社会党に所属していました。 ところが、町長を始めとして町の主要な政治中枢が全て自民党寄りのため、地元の利権を守るのが難しくなり、途中でやむなく自民党寄りに鞍替えしました。 そして同じ小学校区の他の地区の自民党寄りの組織と一緒になって、このK会ができました。

その鞍替えを決定したのは二十数年前の、総選挙の2週間ほど前だったそうです。 それまで社会党系の立候補者を応援していたのが、いきなり手の平を返したように自民党系の立候補者を応援し始めたのですから、選挙の運動員も地元の住民もやたらと混乱したそうです。

またT町があるG郡(仮名)は、知る人ぞ知る自民党の二大巨頭であるA氏(仮名)とB氏(仮名)の地盤であり、以前からその2人が熾烈な勢力争いを繰り広げていました。 そのせいでT町でも自民党系の2つの派閥が勢力争いをしていて、十年程前に町長がA氏派のCさん(仮名)からB氏派のDさん(仮名)に替わりました。 そしてCさんを支持していたA氏派が元町長派となり、Dさんを支持していたB氏派が現町長派になりました。 そしてこのK会は、Cさんが町長の時には元町長派つまりA氏派でしたが、町長がDさんに替わると当然のごとくDさんを支援し、現町長派つまりB氏派に鞍替えしました。

K会の幹部は昔から活動している人が多く、そういった修羅場を何度も経験しているので、危なくてとてもここには書けないような面白い裏話を色々と聞かせてもらいました。 また僕が区長会長をしていた時、隣の地区の区長が元警察官であり、しかも主に選挙違反関係の仕事をしていた人でした。 この人からも色々と面白い裏話を聞かせてもらいました。 その人によると、自民党の二大巨頭が熾烈な勢力争いを繰り広げているせいで、G郡は、選挙違反が全国でもトップクラスに多い地区としてその筋では有名だそうです。

例えば、以前は選挙になると各地区の運動員が交代で「張り番」をしていたそうです。 これは夜間に地区の辻ごとに見張り番を立て、自分達の地区に他地区の立候補者が戸別訪問にやってこられないようにするというものです。 戸別訪問は当然、選挙違反ですが、その頃のG郡では戸別訪問や物品の授受は当たり前のように行われていました。 このため他地区の立候補者が戸別訪問できないようにするために、張り番を立てたのです。 もちろん、張り番の目をかいくぐって戸別訪問をしようとする立候補者もけっこういて、どの地区でも張り番と他地区の運動員の間でかなり激しい攻防が行われたそうです。

最近は、さすがにおおっぴらに張り番はやらないそうですが、僕がこの土地に引っ越してきた頃はまだ盛んに行われていました。 実際、選挙期間中にたまたま夜遅く帰宅した時など、家の近くの辻におかしな人達がたむろしているので不思議に思ったものです。

戸別訪問の方は今でも盛んに行われていて、物品の授受も決して珍しいことではありません。 そしてそれがあまりにおおっぴらに当たり前に行われているので、それを選挙違反と思っていない人がけっこういたりします。 昔から選挙運動をやっているK会の幹部などは、立候補者が地区の住民ひとりひとりに立候補の挨拶をするのは当然であり、戸別訪問が選挙違反になるという法律の方が間違っていると堂々と主張しています。

僕も実際に選挙運動をやってみて、確かに公職選挙法(公選法)には矛盾点が多々あり、それには政治的な裏駆け引きが大きく影響しているらしいことに気づきました。 しかし、公選法が間違っていると主張する人達の意見に同意しながらも、世間一般の常識とか良識からかけ離れたその人達の世界独特の常識は、僕のような人間にはどうしても馴染めない種類のものであることがわかり、その人達と付き合えば付き合うほど違和感がつのっていきました。

さて、区長と区長会長をやっていた2年間で自治会の改革は半分ほど進み、コミュニティ推進協議会の改革は8割ほど進みました。 自治会よりもコミュニティ推進協議会の方が改革が進んだのは、こちらは各地区の自治会役員と各種団体の役員だけが納得すれば改革できるのにひきかえ、自治会は住民一人一人が納得しなければ改革できないからです。 また住民にとってはコミュニティ推進協議会よりも自治会の方が身近で、自分達の生活に及ぼす影響が大きいため、より真剣になり、個人の主張と主張、エゴとエゴがぶつかり合うことが増えるからでもあります。

僕にとってもコミュニティ推進協議会の方が気が楽であり、半分ほどは相手をペテンにかけるような手練手管を使ってかなり強引に改革を推し進めました。 しかし自治会ではそのような強引な方法は使わず、住民一人一人が自分のこととして本気で問題意識を持ち、自らの意思で自治会の改革に参画し、自らの頭で自治会のあるべき姿を考えてくれることを期待して、じっくりと改革を進めました。

要するに、コミュニティ推進協議会の方は運営方法の形式的な改革を主目的にしたのに対して、自治会の方は運営方法の改革を手段にして、自治会に対する住民の意識そのものを改革することを主目的にしたのです。 自治会に対する住民意識が変わらなければ、いくら運営方法を形式的に改革しても効果は少ないだろうし、住民意識が変われば、運営方法は自然と良い方向に変わるだろうと、我ながら気恥ずかしくなるほど理想主義的で、同時に住民にとっては余計なお節介をすることにしたわけです。

残念ながらこの理想主義的な目論みは見事にはずれ、自治会の運営方法の形式的な改革はある程度進みましたが、住民の意識改革はほとんどできませんでした。 これは事前に十分予想したことであり、無理と余計なお節介を承知の上で、ドン・キホーテ的に取り組んだことなので致し方ないところでしょう。

今、あらためて振り返ってみると、僕自身は唯我独尊とゴーイング・マイウェイとマイペースを信条にしていて、会社などではその信条どおりに行動していたのに、自治会のことでは、他人の意識改革を目指すというような余計なお節介をしてしまう気になったのは、自分でも不思議な気がします。 あるいは、会社などであまりにも唯我独尊でゴーイング・マイウェイでマイペースすぎることに対する、無意識のうちの代償行為だったのかもしれません。

区長2期目が終わる頃、改革派の人達から、改革を完了して新しい運営方法が軌道に乗るまで区長を続けて欲しいと要望され、僕もせっかく乗りかかった船だから、そうしようかと思っていました。 ところがうすうす予想していたように、どこの馬の骨とも知れない若造がしゃしゃり出て来て、自治会やコミュニティ推進協議会を我が物顔で引っかき回すことを快く思っていない人達がやはり存在し、僕に対する風当たりがだんだんと強くなってきました。

僕自身はその土地に何のシガラミもなく、しかもけっこう厚顔無恥なので、誰に何をいわれようと全く気になりませんでした。 しかし僕に対する反感を改革案に対する反対意見にすり替え、改革案に対して感情的に反対する雰囲気が一部の人達に出てきたのには少々困りました。 僕が目指したものは、自治会の形式的な改革というよりも自治会に対する住民意識の改革であり、改革派も反対派も無関心派もみんな一緒になって、自治会のあるべき姿を考えるような機運を作ることなのです。

このため、僕がこれ以上でしゃばるとかえってうまくいかないかもしれないと考え、3期目は区長をやらないことにしました。 その代わり、自治会に事務局という新たな役を作って自らそこに納まり、自治会の表舞台から身を引くことにしました。 つまり自分は表に出ずに、黒幕として裏から改革を進めようという、いかにも悪徳窓際幽霊社員らしい悪巧みをしたわけです。 また僕が自治会関係の書類を全てコンピュータ化してしまったので、コンピュータの扱いに慣れた人が役員の中にいないと、書類を整備することができなくなっていました。 そして役員の平均年齢から考えて、おそらくしばらくの間はそんな役員はおらず、僕がフォローする必要があるだろうという事情もありました。

こうしてその後の2年間は、役員を補佐するという名目で、役員に改革の継続を押し付けるという、役員になった人にとってはありがた迷惑な事務局を続けました。