中国の漢字の読み方というのは、漢字が創られた時から正確に伝わっているのでしょうか? 例えば、ここに「魚」という漢字があったとします。 日本であれば、表音文字があるので「ぎょ」なり「うお」と書き記して、読み方を残しておけます。 ところが中国には表音文字はありませんので、「魚」と言う漢字がどういった読まれ方をされるのかを伝えるのは、人間の記憶しかないような気がします。 そこでふと思ったのは、もしかして中国には字としては存在しているが、読み方が解らないので使えない、「幻の漢字」があったりするのではないかという変な事です。 どなたか物知りな方、教えて下さい。
漢字の読み方は時代によって変遷があり、それを研究するための「音韻学」という学問が中国では古くから発達しています。 音韻学は文字の発音だけでなく、文字と言語の整理分類、その間の関係など、幅広い分野をカバーする学問です。 中国では紀元前7世紀頃から音韻学的な研究が始まっていて、それを時代と文献で大きく分類しますと次のようになります。
漢字の音韻を表すには、時代と研究者によって様々な方法がとられています。 上古・中古時代には古代インドの梵字(サンスクリット文字)や、「反切法」といって、母音と子音を別々の漢字で表す独特の方法が用いられていました。 中世・近世には音素文字であるローマ字、蒙古のパスパ文字などが用いられるようになり、やがて独自の音韻記号である「注音字母」が制定されました。 現代ではこの注音字母と、欧米で用いられているアルファベット系の発音記号を併用しているそうです。
現在、日本で用いられている漢字の音読みは、主として漢の時代の読み方と、その後の三国時代における呉の国から伝わった読み方が、古代朝鮮半島を経由して古代日本に伝えられものが中心になっています。 このため漢和辞典や字源を調べますと、漢字の音読みとして「漢音」と「呉音」が併記されていて、たまに参考として「唐宗音」と「慣用音」が記されています。 それから僕の知る限りでは、読み方のわからない漢字は中国にはほとんどないと思います。 でも、日本の万葉仮名は読み方のわからないものが数多くあります。 漢字については、何しろ中国は本家本元であり、日本はそれを借用して使っているにすぎませんから、日本の方が不明瞭な部分が多くても不思議ではありません。
表意文字である漢字に限らず、日本独自の表音文字であるひらがなやカタカナの発音も、本質的には口伝えと人間の記憶しかなく、時代によって変遷があります。 ひらがなやカタカナは音節文字(母音と子音を1つの文字で表す)であって、音素文字(母音と子音を別々の文字で表す)ではありませんから、発音を正確に書き表すことが難しく、独自の発音記号を工夫したり、別の音素文字を使うように提唱した人もいます。 例えば江戸時代に活躍した式亭三馬の名作「浮世風呂」には、登場人物の発音をできるだけ忠実に表すために、独自に工夫した発音記号のような仮名文字が用いられています。 また、明治時代からたびたび提唱されている「ローマ字国字論(ローマ字を国の正式な表音文字とすべきであるという議論)」の根拠のひとつに、ローマ字が音素文字であるという点があります。
ちなみに現在の日本の音韻学では、世界的な慣習に合わせて、アルファベット系の発音記号を用いるのが普通です。 なお漢字の読みや語源については、我が国が誇る漢字語源研究の第一人者、藤堂明保博士の名著「漢字語源辞典」あるいは「漢和大辞典」を御覧ください。
日本のお城っていろんな別名を持ってますよね。 例えば、姫路城が「白鷺城」だったり、広島城が「鯉城」だったり。 それでは、名古屋の唯一にして最大のシンボルとも言える名古屋城には、別名があるんでしょうか?
名古屋城の別名としては「金鯱城(キンコジョウ、キンシャチジョウ)」が有名ですが、その他にも「楊柳城(ヤナギジョウ)」または「柳ヶ城(リュウガジョウ)」もわりと知られていますし、「亀尾城(カメオジョウ)」や「鶴ヶ城(ツルガジョウ)」などというのもあるそうです。
名古屋城の横、現在の名城公園があるあたりは、昔はりっぱな庭園になっていて、そこは柳の木で有名でした。 このことから柳の木が名古屋(尾張)のシンボルのようになっていて、名古屋城が「楊柳城」と呼ばれたり、「柳橋」ができたりし、御器所の近所には「柳城女子短大」なんてのがあったりします。 また明治の初期に、名古屋から東京に進出した服部時計店が名古屋にちなんで銀座通りに柳を植え、これが現在も銀座通りの名物として残っています。 今ではあまり想像できませんが(^^;)、昔の名古屋はわりと風流だったようです。
なお「亀尾城」と「鶴ヶ城」は、名古屋城の形に由来するとのことです。
先日、仕事で「寮歌祭」というものの取材に行ってきました。 で、当時のバンカラな旧制高校生の人生観というか、世界観を推し量るのに相応しい素材として、例の「デカンショ節」があるんですが、荒唐無稽といえば荒唐無稽、でもこんな大きな事考えていられる時代は幸せだなぁと思ってしまったのでした。 ところで、この「デカンショ」とは「デカルト、カント、ショウペンハウエル」の略である、と北杜夫氏の「まんぼう青春記」で読んだ記憶がありますけど、これは本当でしょうか?
確かにDr.マンボウはそう書いていますが、色々調べてみますと、どうもそうとは言い切れないようです。 そもそもデカンショ節は、明治の末期に、主として学生の間や花柳界で流行した歌で、元々は兵庫県篠山地方の盆踊りの歌を元にした、替え歌のようなものだったらしいです。 一説によりますと、東京高等師範学校教授だった亘理章三郎(わたりしょうさぶろう)氏が、旧一高(東京大学の前身)の生徒に教え、それが全国に広まったとも言われています。
で、肝心の「デカンショ」の語源としては、
など色々な説があって、いまひとつはっきりしていません。
僕が思うには、元々は1番の「どっこいしょ」という意味の掛け声だったのが、学生達が「『デカンショ』とは、デカルト、カント、ショーペンハウエルの略であ〜る!」などと、シャレでこじつけたのではないかという気がします。 いかにも、明治のシャレっ気ある学生あたりがやりそうなことだとは思いませんか?
ちなみに「バンカラ」も同じ明治の末期にできた言葉で、当時の流行語であった「ハイカラ」をもじって、「蛮(バン)カラ」と言ったのが由来です。 つまり「ハイカラ」が「ハイカラー(高い襟)」の略であり、西洋風の洗練された上品な風采や言動を表す言葉なのに対して、「バンカラ」は洗練されない粗野な風采や言動を表す言葉なのです。 もっとも、ハイカラという言葉には西洋かぶれを揶揄するような意味もこめられているので、バンカラという言葉には、それに対して「どーせ、あたしゃー野蛮でけっこう!」という、日本古来の伝統を守る開き直り的な意味もこめられています。 これら2つの言葉は、例の「ハイカラな慶応ボーイ」対「バンカラな早稲田のイモ学生」という有名な対立でも、象徴的に用いられたようです。