玄関小説とエッセイの部屋作品紹介コーナーお気に入りの本−一般小説編

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【お気に入りの本−一般小説編】

○「少年が来る(소년이 온다)」ハン・ガン=著、 井手俊作=訳

1980年5月18日に韓国の光州(クァンジュ)で起きた民主化抗争――光州事件を題材にした衝撃作です。

作者のハン・ガンは光州で生まれて満9歳までそこで過ごし、光州事件の数ヶ月前にたまたまソウルに移り住んだそうです。 そして「生き残った者の1人」として自分の家族を含む事件の関係者と事件現場を取材し、事件で亡くなった人達の魂を時空を超えて現代に招き寄せ、その魂に乗り移られるようにしてこの鎮魂の物語を書き上げています。

本作を読むと、人並み外れて鋭い感受性と優れた文才を持つ人間が光州事件のような非人道的な事件に遭遇すると、悪夢にうなされ、胸の奥から血を流しながら、その血によってこのような魂がこもった深く鋭い作品を書かずにはいられないのだろうと感じます。

光州事件や韓国の歴史に興味がある人だけでなく、人間が持つ矛盾した二面性――良心と邪心、気高さと残忍さ、人間性と獣性――に興味がある人に是非ともお勧めしたい作品です。

○「リストカットの向こうへ」生野照子、新潮社

心療内科・小児科医である生野照子先生が書かれた小説で、不登校の娘と女性医師の葛藤を臨場感に溢れた筆致で描いた、限りなくノンフィクションに近いフィクションです。

生野先生といえば、日本における摂食障害治療の第一人者として、心身医学界では誰もが知っている名医です。 その生野先生が神戸女学院大学人間科学部の教授をされていた時(現在は名誉教授)、ひょんなことから学生達の統計学指導を依頼されたことがあります。 そして生野先生のお人柄に惹かれてすっかりファンになってしまった僕は、先生が神戸女学院を退職されるまで、毎年、卒研シーズンに学生達の統計学指導をさせていただきました。

その生野先生が心身症をテーマにした一般向け解説書やノンフィクションではなく、小説を書かれたということを知って最初は驚きました。 しかし本書を読んで、これを小説にした先生の意図が何となく理解できたような気がします。

出来事を客観的かつ正確に伝えるには、フィクションよりもノンフィクションの方が向いています。 しかし心の問題が身体の症状として現れる心身症については、患者の外面的な症状よりも内面的な深層心理の方が重要であり、それは必然的に非常にプライベートな問題になります。 そのような問題を正確かつ真摯に伝えるには、むしろフィクションの方が向いていると生野先生は思われたのではないでしょうか。

特に本書の前半の第一部からは、そのような印象を受けました。 主人公は大学病院で心身症外来を担当している小児科の女性医師であり、若き日の生野先生を思わせます。 患者との対話の様子も臨床現場における生野先生を連想させ、主人公のセリフが生野先生独特の相手を包み込むような上品で優しい声で聞こえてくるような感じがしました。 しかし後半の第二部になると、主人公の女性医師を始めとするキャラクター達が作者の手から離れ、独立した存在として物語の中で生き生きと行動し始めます。 そして第一部では作者にリードされていた物語が彼女達にリードされるようになり、物語はその必然的な大団円に向かって突き進んでいきます。

つまり第一部では物語は作者の手の中にあり、キャラクター達も作者の意図どおりに行動していたのが、第二部ではキャラクター達が自らの意思で行動し始め、作者が物語に憑依されて、キャラクター達の行動や心理状態を自動書記的に記述する存在になっているように感じられるのです。 そのせいで本書は限りなくノンフィクションに近いものの、小説として見事に成功していると思います。 これは優れた医師であり冷静な研究者であると同時に、豊かな感受性とクリエイティブな才能に恵まれた生野先生ならではのものでしょう。

医療関係者や臨床心理学関係者だけでなく、一般の人にも是非読んでいただきたい小説です。

○「孤愁の岸」杉本苑子、講談社文庫

宝暦治水を題材とした小説はあまり多くありませんが、その中でおそらく最も有名な作品がこれです。 この作品は作者のデビュー作であると同時に直木賞を授賞した出世作でもあり、女性作家の作品とは思えないほど力強く骨太い構成の力作です。

作者は宝暦治水の舞台のひとつである愛知県出身の有名作家、吉川英治氏の唯一の愛弟子であり、この作品を急死した師の霊前に捧げています。 またこの作品は森繁久哉主演で舞台化され、その縁で森繁氏は宝暦治水ゆかりの木曽三川公園記念館の名誉館長になっています。

小説ですからもちろんフィクションや脚色はありますが、比較的史実に忠実に書かれていますし、小説としてのデキも良いので、宝暦治水入門書として相手かまわず勧めまくっています。 宝暦治水に興味のある人は、是非読んでみてください。

○「千本松原」岸武雄、あかね書房

宝暦治水を農民の側から描いた子供向けの作品で、野間児童文芸推奨作品賞を授賞した傑作です。 子供向けにしてはかなり深い内容を持っている上、メデタシメデタシのハッピーエンドではないので、むしろ大人が読んで感動する作品のような気がします。 また「孤愁の岸」と違って農民の側から描いてあるので、何となく水と土の匂いのするユニークな作品になっています。

数年前、この作品を原作とした同名のアニメが作られましたが、アニメでは原作の持つ水と土の匂いがやや薄れてしまっていて少々がっかりしました。 史実を基にした物語とはいえ、リアルさを多少犠牲にしても、例えばTVアニメ「日本昔話」のようなイメージでアニメ化して欲しかったような気がします。

ちなみに僕の場合、費用と保存場所を節約するために、まず目的の作品を図書館で借りて読み、気に入ったものを文庫本になってから買うというのが普通なのですが、この作品とエンデの「はてしない物語」は文庫本になる可能性が低いように思われたので、オリジナルのハードカバー版を購入しました。

○「赤穂浪士」大佛次郎、角川文庫

現代版忠臣蔵の定本ともいえる、あまりにも有名な大佛次郎の名作です。 大石内蔵助、浅野内匠頭、吉良上野介といったお馴染みの実在人物に、ニヒリストの美剣士・堀田隼人、怪盗・蜘蛛の陣十郎、美貌の女間者・お仙といった魅力溢れる架空の人物を絡ませ、作者独特の名文によって語られるスケールの大きな物語は、骨太かつ緻密で陰影の濃い、味わい深い作品になっています。

この作品が後の忠臣蔵物に与えた影響は非常に大きく、現在、巷で知られている忠臣蔵のエピソードのほとんどは、「仮名手本忠臣蔵」とこの作品を元ネタにしていると言っても過言ではないでしょう。 例えば、赤穂浪士の計画を阻止しようと大石内蔵助と虚々実々の駆け引きをする上杉家の名家老・千坂兵部は、史実上は討ち入りの数年前に病死しているにもかかわらず、この作品で初めて登場して有名になり、以後の忠臣蔵物では準レギュラーとなりました。

僕が始めて知った本格的な忠臣蔵物は、この作品を原作としたNHKの大河ドラマ「赤穂浪士(長谷川一夫主演、1964年放映)」であり、それが忠臣蔵の原イメージとなって刷り込まれています。 特に宇野重吉の蜘蛛の陣十郎と林与一の堀田隼人は、これ以外の配役は考えられないほどの極め付けでした。

○「おれの足音」池波正太郎、文藝春秋

忠臣蔵の中心人物・大石内蔵助良雄の外伝であり、忠臣蔵物としてはあまり有名ではありませんし池波作品の中でもあまり有名ではありません。 しかしこの作品で描かれた内蔵助は、酒好き女好き遊び好きで武芸や学問はからっきしダメな上、与えられた仕事は全て部下に任せてひたすら惰眠を貪り、「昼行灯」と渾名される窓際家老、そのくせ自由奔放豪放磊落で人心収攬の術に長けているという、梅安や鬼平など他の池波作品の登場人物とも相通ずる性格を持った、かなりユニークかつ”立った”キャラクターです。

この愛すべき大石内蔵助像は僕が一番気に入っているものであり、宝暦治水ヲタクになる前は忠臣蔵ヲタクだった僕が、数ある忠臣蔵物の中でこの作品を偏愛している理由もそこにあります。 この作品を初めて読んだのは非常に若い時(ほとんど子供の頃)でしたが、以来、幾度となく読み返し、色々な意味で影響を与えられ続けています。

○「第二の顔」マルセル・エイメ、東京創元社

ごく普通の冴えない中年男が、ある日突然、美青年に変身してしまうという、何となくカフカの名作「変身」を連想させるような作品です。

同じ変身するにしても毒虫ではなく美青年に変身するわけでから、当然、自我の分裂とか実存主義的思想といった形而上的なテーマよりも、女性にもてた経験の無い男がモテモテになったらどうなるかといった形而下的なテーマに比重が置かれています。 そして作者は小説の名手として定評があるだけに、何よりも小説として面白く、しかも読み終わった後、人生を感じさせるようなしみじみとした余韻が残ります。 このしみじみとした余韻はフランス映画などにも共通するものであり、フランス作品の特徴と言えるかもしれません。

もちろん「変身」が小説として面白くないというわけではありませんが、毒虫に変身する話よりも美青年に変身する話の方が読んでいて気分が良く、文部省推薦ではないところもお気に入りです。 またマンガチックで異常な設定の物語が大好きで変身願望も強い僕は、こういった作品には理屈抜きで惹きつけられてしまいます。

○「ジェニーの肖像」ロバート・ネイサン、ハヤカワ文庫

昔から気にかかっていて、いつかは読みたいと思っていたファンタジーの名作ですが、何しろ定評のある名作であるがゆえに、へそ曲がりで天の邪鬼の僕は何となく敬遠していました。 それが最近古本屋で見かけてとうとう読了し、色々な意味で感慨深いものがあってお気に入りの作品になりました。

ふとしたことで知り合った謎の美少女が会うたびに成長していて、数ヶ月の間に大人の女性になってしまうというファンタスティックでロマンチックなこの作品は、ジェニファー・ジョーンズ主演で映画化された(「ジェニーの肖像」ウィリアム・ディターレ監督、1948年)せいもあるでしょうが、作家の想像力を刺激するらしく多くの作品に影響を与えています。 少女マンガ界の大御所水野英子はこの作品を元ネタにして「セシリア」を描き、その「セシリア」を読んだことがきっかけで、みなもと太郎は漫画家の道に入ることになりました。 「ホモホモセブン」や「風雲児たち」で有名なギャグマンガ家・みなもと太郎は、実は最初は少女マンガ家として『りぼん』からデビューしたのです。

水野英子とはトキワ荘仲間で、合作したこともある石ノ森章太郎も、「ジェニーの肖像」を元ネタにして「昨日はもうこない、だが明日もまた…」を描きました。 「昨日はもうこない、だが明日もまた…」が収録された石ノ森章太郎の好アンソロジー『竜神沼』には、ロジェ・ヴァディム監督の傑作映画「血とバラ」を元ネタにした吸血鬼テーマの作品「きりとばらとほしと」も収録されていて、この2本の作品に影響された萩尾望都は、「すきとおった銀の髪」と「マリーン」(今里孝子原作)を描き、前者は名作「ポーの一族」へと発展することになります。

また、おそらくは「ジェニーの肖像」と「セシリア」の両方の影響を受けて、池田理代子も「水色の少女」を描いています。 さらに「ふぞろいの林檎たち」で有名な脚本家・山田太一は、「ジェニーの肖像」を元ネタにして小説「飛ぶ夢をしばらく見ない」を書き、それは石田りえ主演で映画化(須川栄三監督、1990年)されました。

我田引水になりますがこういったファンタジー作品を映像化する場合、生身の人間による実写よりも、マンガやアニメの方がより有利なメディアであるということをこれらの作品を見てつくづく感じました。 何しろ顔に小皺のある10歳前後の美少女とか、やたらとグラマーで大人びた体つきの中学生くらいの少女というのは、いくら映画上の暗黙の約束事があるとはいえ見ていて少々シラケてしまいますもんね。

○「はてしない物語」ミヒャエル・エンデ、岩波書店

これまた今更紹介するのがためらわれるファンタジーの名作であり、「ネバー・エンディング・ストーリー」として映画化され、ファンタジーブームを巻き起こしたのは記憶に新しいところです。 映画化されたのは作品の前半部分だけですが、この作品は多くのエピソードから成り立っていて、そのひとつひとつのエピソードがそれだけで独立した作品として読むことができるほど豊富な内容を持っていますので、前半部分だけの映画化でも映画としては十分優れた作品に仕上がっていました。 しかしこの作品を名作たらしめている重要なテーマは後半部分に出てくるので、本書を読んだ後に映画を観た僕は、はっきり言って映画には少々不満が残りました。

ただ、同じ作者のもうひとつの代表作である「モモ」も映画化されていて、こちらの方は原作に非常に忠実に映画化されていますが、映画自体のデキとしては「ネバー・エンディング・ストーリー」に及ばないことを考えますと、原作と映画の関係は色々と難しいものであることを思い知らされます。

まあ、映画化されたものは原作とは別物と割り切ってしまうしかないのですが、どちらの作品も僕の大好きな作品なので、映画しか観たことが無い人には、豊かなイマジネーションと哲学的とも言える寓意に満ちた原作を是非読んでみるようお薦めします。

○「新版 指輪物語」J・R・R・トールキン、評論社

今更紹介するのも恥ずかしいくらいに超有名なファンタジー、イギリスの言語学者トールキン博士の「The Load of The Rings」です。 ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」と並んでこの物語は以後の作家に多大な影響を与え、「The Lord of The Dragon」、「Wizardry」、「Dragon Quest」等のRPGの元ネタにもなっています。

コンピュータというSF的機械によるゲームであるにもかかわらず、多くのRPGがファンタジー世界を舞台としているのはこの物語の影響が大きく、これはコンピュータゲームの世界では周知の事実です。 もちろんその背景には日本のSFが根本的には時代劇を下敷きにしているのと同様、西洋のSFが根本的には中世的ファンタジー世界を下敷きにしているということがありますが、そのことすらもこの物語が後のSF作家に与えた強い影響が一因になっていると考えられるほどです。

古よりの伝説と世界を支配するほどの力を持つ宝物の存在、その宝物をめぐって正義の使命を帯びて旅に出る若き主人公とその道中仲間達、魔力を持つ道具と魔法を駆使した魔物達との戦い、その戦いによってより強い勇士に成長する主人公、そして最後にして最大の敵・悪の大王との激しい戦い──この物語は、読んでいて思わず笑ってしまうほど見事にRPGの元ネタになっています。

ちなみにジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」は、黒沢明監督の傑作映画「隠し砦の三悪人」を下敷きにして、この物語の影響を受けたものであり、宮崎駿監督のアニメ「風の谷のナウシカ」は、ギリシャ神話に登場するナウシカ姫と『堤中納言物語』の中の「虫愛ずる姫」をモデルにして、フランク・ハーバートの傑作SF小説「デューン・砂の惑星」の影響とこの物語の影響を間接的に受けています。 「砂の惑星」に登場する巨大なワーム(砂虫)が「ナウシカ」ではオーム(王蟲)になっていたのには少々驚かされ、この物語の中(と言うよりも西洋の妖精世界)では悪役のトロルが「となりのトトロ」になったのには笑わされましたが、どちらも宮崎監督の御愛敬でしょう。